ヨーロッパと日本(10)

9.四候会議(1867年・慶応3年5月)

かねてより風邪気味であった孝明天皇はその病状を悪化させ、1867年1月

30日(慶応2年12月25日)崩御される。その死因については諸説あるが天然

痘を患ったと言うのが正確なものであろう。直ちに孝明天皇の第2皇子であられ

る「睦仁むつひと親王」が満14歳で践ソ(せんそ、天子の位を受け継ぐ)した。

明治天皇である。

1858年の安政の五カ国条約で5年後の1863年からの開港が予定されていた

兵庫港については、その後開港が5年延期され1868年1月1日(慶応3年

12月7日)となっていたので、慶喜の将軍就任時点では、残り一年に迫ってい

た。京都にも近いこともあり、攘夷派でもある孝明天皇は強く反対していた。

そもそも孝明天皇は条約そのものにも勅許を出していなかった。

若くして即位(位に就いたことを広く内外に明らかにすること)した明治天皇

は、摂政制が敷かれていた。その摂政二条斉敬や将軍慶喜に対する諮問

機関として、薩摩藩主導の下に四候会議設置されていた。この会議の構成

員は、前の越前藩主松平春嶽、前土佐藩山内容堂、前宇和島藩主伊達宗

城、それに薩摩藩主の父島津久光の4人であった。薩摩藩はこれを機に政治の

主導権を慶喜から雄藩連合側へ取り戻そうと画策した。

しかし慶応3年5月の四候会議では、徳川慶喜が主導して、兵庫開港と長州寛

典論(長州の復権)を奏請し、明治天皇の勅許を勝ち取ることとなる。これは

喜の完勝に終わり薩摩側の敗北を意味した。そのため薩摩藩の西郷・大久保

たちは戦略の変更を余儀なくされ、もはや列候会議では幕府を制御することは

不可能であるとし、公議路線を放棄し武力倒幕路線へと向かうこととなる。

そして倒幕の密勅を授かるよう工作することとなる。

(続く)