これにより倒幕の大儀名目はなくなり徳川慶喜の政権が引き続き維持されること
となり、薩長や岩倉具視たちが実権を握るには、満15歳の明治天皇を手中にし
て親徳川派の公家衆を排除し、朝廷を掌握するためのクーデターによる他なく
「王政復古」へと向かうこととなる。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機してい
た薩摩藩兵ら5藩の軍が京都御所9門を固めた。御所への立ち入りは厳しく制限され、二
条摂政や朝彦親王などの参内も禁止された。そうした中、岩倉具視らが参内し、御所内学
内容は
1.徳川慶喜が申し出た将軍職辞職の勅許。
3.江戸幕府の廃止。
4.摂政・関白の廃止。
5.新たに総裁、議定、参与の3職をおく。
と言うもので、伝統的な摂政・関白以下の朝廷の秩序を一新することで上級公
家を排除し、徳川が新政府の主体となることを禁止し、天皇親政の名の下で、
岩倉具視ら一部の公家と薩長が主導する新政府を成立・宣言する内容で
あった。
岩倉具視は3職のうち参与の職に就き、同日(1868年1月3日)18時頃から、
御所内の小御所において明治天皇ご臨席のもと、新体制としての初の3職会議
が開かれた。会議では議定の山内容堂らと参与の岩倉具視達と徳川慶喜の処
遇で激論が交わされたが、休憩後西郷たちの暗殺も辞せずとの噂を聞き及んだ
山内容堂達がおとなしくなり、岩倉具視たちのペースとなり、徳川慶喜の「辞官
納地」(慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄)が決定した。
なお、明治維新の開始時期をこの「大政奉還」と「王政復古」以降とすることが
多いが、通説では、明治改元に当たる1868年10月23日(慶応4年9月8
日)となる。
(続く)