11.戊辰戦争(1868年1月27日~1869年6月27日)
辞官納地が決したからと言って平穏に政権が委譲したわけではない。一山も二
山も越えなければならなかった。
山内容堂等の公議政体派が巻き返しを図り、諸藩にも動揺が広がり、慶喜が王
政復古の大号令の撤回を要求するまでになる。そして1868年1月16日(慶
応3年12月22日)に朝廷は、事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を
承認したとも言える内容の告諭を出す。慶喜の主張が認められた格好となり、
薩摩藩側を強い危機感を抱き幕府側を挑発する。
この薩摩藩の暗躍に幕府強硬派が乗せられ、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上
京都封鎖を目的に出兵し、1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽・伏見
の戦いに突入する。当初幕府側が優勢であったが、薩長側が「錦の御旗」を掲
げると幕府軍は大いに動揺し総崩れとなる、と言うのは昔のNHKの大河ドラマ
のストーリーであるが、5,000名の新政府軍に対して、旧幕府軍は15,000名
と優勢であったが、狭い街道での戦いで兵力を生かしきれず、やがて津藩の新
政府軍側への寝返りにより旧幕府軍は総崩れとなる。そして慶喜に対して追討
令が発せられ、「朝敵」としての汚名を着せられてしまう。
この錦の御旗は岩倉具視の発案で薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二
郎達が、京都市中で大和錦と紅白の緞子(どんす)を調達し、薩摩藩と長州藩で
密造したものであったが、薩長両軍を中心に使用され、官軍の士気を大いに高
めた。
追討令が出たことを聞くと、徳川慶喜は慶応4年1月8日密か大阪城を脱し、大
阪湾に停泊中の幕府軍艦、開陽丸で江戸に退却してしまう。
この後戦いの舞台は、上野、北越、会津、函館などと続いてゆく。
慶応4年、明治元年の干支が戊辰だったことから、これらの戦争を戊辰戦争と
言う名で呼ばれている。(1868年1月27日~1869年6月27日箱館戦争)
江戸に戻った徳川慶喜は、慶応4年1月15日、上野寛永寺に謹慎し、天皇に反
抗する意志がないことを示そうとした。新政府軍は東海道軍、東山道軍、北陸
道軍の3派に分かれ、江戸に向け進軍した。江戸城総攻撃を計画していた政府
軍は、西郷隆盛と旧幕府の全権を委任されている勝海舟との間で江戸城開城
の交渉が行われ、1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城の無血開城
が行われた。そして1868年5月13日(慶応4年4月21日)政府軍が江戸城に
入城して江戸城は新政府軍の支配下に入り、ここに260余年続いた徳川幕府
の天下は終わりを告げることとなる。
(続く)