ヨーロッパと日本(14)

1868年7月4日(慶応4年5月15日)、いまだ抵抗する上野彰義隊を攻撃し壊

滅させ新政府は江戸以西を掌握する。

更に、1868年10月8日(慶応4年8月23日)新政府軍は会津若松城下に突

入し、これを制圧する。このとき城下町で発生した火災を若松城の落城と勘違い

した白虎隊隊士の一部は飯盛山で自刃している。そして会津藩は1868年

11月6日(明治元年9月22日)新政府軍に降伏した。そして戦いは蝦夷地での

函館戦争へと突入してゆく。

この戊辰戦争では、政府軍は主にイギリスから、幕府軍は主にフランスから、

軍事教練や武器の供与などの援助を受けていた。しかし両陣営とも外国の軍隊

の派兵を要請することはなかった。このため、欧米列強による内政干渉や武力

介入と言う事態は避けられている。

この点は、幕府側も薩長も、欧米列強に蹂躙されている中国の実情をよく把握し

ていたからである。もとを糺(ただ)せば、両陣営ともそのようにならないために

改革に乗り出したものと言えるからであろう。その点は、痩せても枯れても徳川

幕府であった。

当時の日本駐在の英国公使ハリー・パークスは1865年(慶応元年閏5月)に

日本に着任しているが、中国語に通じていたため中国駐在が長かった。そのた

め諸般の事情に通じ幕府よりも薩摩や長州に接近する。薩長を支援し各地を訪

れている。また兵庫開港や関税率の改正など、威圧的な交渉で臨み実現させて

いるが、この戊辰戦争では中立を保ち他の列強諸国が日本に介入することを

防止する役目も果たしている。

(続く)