ヨーロッパと日本(16)

13.箱館戦争(1868年12月4日~1869年6月27日)

さて話を戊辰戦争に戻そう。戦いはそろそろ函館へと移って行く

1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城が「無血開城」し徳川家の「辞官

納地が決定した。このため約8万人の幕臣を養うことは困難となる。徳川家の

海軍副総裁の榎本武揚彼等を蝦夷地に移住させ北方の防備と開拓に当た

らせようと画策した。そして新政府への軍艦の引渡を遅らせ、開陽丸などの軍艦

4隻と咸臨丸などの運送船4隻の合計8隻の幕府艦隊は品川沖を脱し蝦夷地を

目指した。途中悪天候に見舞われ咸臨丸など2隻の運搬船を失いながらも、仙

台に寄航し敗残兵など2,500名を吸収し総勢約4,000名で蝦夷地を目指し

た。そして1868年12月4日(慶応4年10月21日)函館の北、鷲の木に約

3,000名を上陸させる。上陸5日で旧幕府軍は函館を占領し五稜郭にも無血

入城を果たす。して江差松前などの戦いで勝利し蝦夷地を平定し、旧幕府

軍は箱館政権立する。

しかしこれら一連の戦いで旧幕府海軍も壊滅的な打撃を受け、制海権を失うこと

となる。これにより新政府軍は1869年5月20日(明治2年4月9日)江差

部に上陸し、江差松前木古内の戦いなどに勝利し、二股口(1869年5月24

~6月9日、明治2年4月13日~4月29日)での激戦をかろうじて突破し函館

に迫る。

そして1869年6月20日(明治2年5月11日)新政府軍は函館総攻撃を開始

し、陸海両方から函館に迫った。箱館政権の艦隊は3隻に減っていた。更に、幕

府がアメリカに発注していた甲鉄艦(日本ではじめての鋼鉄装甲の船)が新政府

軍に渡り、甲鉄艦を旗艦とした6隻での艦砲射撃で陸上部隊を支援していたが、

6月10日(旧4月30日)から箱館総攻撃の6月20日(旧5月11日)までの箱館

湾海戦では新政府軍は箱館政権の軍艦を全て撃滅してしまう。一般的には、新

政府軍の蝦夷上陸の1869年5月20日(明治2年4月9日)から6月20日(旧5

月11日)までの函館湾での海戦を箱館湾海戦としている。これによる戊辰戦争

の舞台は陸上戦へと移る。

立待岬から上陸した黒田清隆率いる新政府軍は、箱館山を占領し激戦の内に

箱館市中を占領し、五稜郭に迫る。黒田清隆五稜郭榎本武揚に降伏を勧

告するが、なかなか応じなかったが、榎本が国際法に精通していることを知った

黒田は手を尽くして降伏を勧告し、有能な人材の損失を防ぎ、1869年6月27

明治2年5月18日)全員が投降し、ここに箱館戦争及び戊辰戦争が終結

する。

榎本武揚は、その後明治政府に登用され、明治7年(1874年)1月には駐露特

命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結している。その後各大臣を歴任し

ている。

(続く)