ヨーロッパと日本(19)

次に坂本龍馬の「船中八策」を列記してみる。

一策、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事

二策、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議

に決すべき事上下両院を設置し、議会政治を行え

三策、有材の公卿諸侯及天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、宜しく従

来有名無実の、官を除くべき事(公卿諸侯のほか有能な人材を選抜し顧問と

せよ)

四策、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事(不平等

条約を改正せよ)

五策、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事憲法を制定

せよ)

六策、海軍宜しく拡張すべき事

七策、御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事

八策、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事(金銀の交換レートを国内用

と国外用とを統一させよ)

1867年6月(慶応3年4月)坂本龍馬(33歳)は長崎から京都へ向かう土佐

の船夕顔丸の船上にいた。上洛している前土佐藩主の山内容堂(41歳)に

対し大政奉還を進言するためだ。その船上で土佐藩参政の後藤象二郎

(30歳)に、大政奉還を旨とした政治構想を示した。これをまとめたものが

船中八策であるが、後藤はこの坂本の構想を山内容堂に進言した。

山内容堂はこれを大政奉還建白書として1867年10月に第15代将軍徳川

慶喜(31歳)に提出する。そして1867年11月9日(慶応3年10月14日)慶

による大政の奉となる。このように大政奉還の立役者は坂本龍馬であった

言っても過言ではない。

坂本龍馬後藤象二郎は共に土佐藩の出身であるが、龍馬は郷士の身分であ

り、後藤の身分は上士であり、坂本にとっては後藤家ははるか雲上の人であっ

た。しかも後藤は山内容堂の指示を受けて、竜馬などとも親交のあった土佐勤

皇等を弾圧した。2人は仇敵の間柄であったが、龍馬は後藤の人物の大きさを

認め両者は手を結び、薩長連合による討幕軍に土佐藩も加わることとなる

坂本龍馬は此の年、1867年12月10(慶応3年11月15日)京都の旅籠・近

江屋の2階で、中岡慎太郎と共に京都見廻り組(と言う説が有力であるが)によ

り暗殺される。真に惜しい人物を亡くしたものであるが、日露戦争日本海海戦

の直前に、龍馬は皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対に勝てます」と

語ったと言う。此の話は全国紙にも掲載されたと言うが、龍馬は死しても日本国

の行く末を案じていたものと思われる。

(続く)