ヨーロッパと日本(26)

16.明治、惟(これ)(あら)たなり

1867年11月9日(慶応3年10月24日)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜

明治天皇に統治権の返上を上奏し、翌日1867年11月10日(慶応3年10月

25日)に大政奉還の勅許の沙汰書が下り、大政奉還が成立する。

そして年の明けた1868年1月3日(慶応3年1月29日)に岩倉具視や西郷・

久保らの手配により、明治天皇による「王政復古の大号令」が発せられる。

これにより、岩倉具視ら一部公卿と薩摩・長州を主体とする新政府が樹立

れた。

新政府の新しい政治方針は、1868年4月6日明治元年・慶応4年・3月14

日)京都御所紫宸殿において、天神地祇御誓祭と言う儀式によって、「五箇条

の御誓文」として示された。

そして1868年6月11日明治元年・慶応4年・4月21日)、「政体書」を発布

し、政治機構を定めている。これは総裁、議定、参与の3職体制に代えて新た

な官制を定めたものである。これを政体書体制と言う。この政体書の冒頭に

は、先に示した「五箇条の御誓文」を新政府の基本方針として掲げ、中央政

府に国家権力の全体を支配する組織の太政官を置きその権力を「立法・行政・

司法」の三権に分けた。三職のうち総裁が廃止され、副総裁2人が輔相と称し

て事実上の政府首班についた。立法権議政官と言う組織が司り議定・参与

からなると諸藩の代表から下局で構成された。行政権を司るには、行政・

神祇・会計・軍務・外国の各官(庁)からなる五官が設置された。その行政官

は輔相が長となり他の四官を監督した。司法権司法官と言う組織が司った

が、行政官の監督を受けていた為、必ずしも司法権は独立したものではなかっ

た。更に、輔相は議定の資格で議政官の上局の構成メンバーでもあったため、

権力分立の制度はその揺籃期であった。

そして1885年12月22日(明治18年)伊藤博文初代の内閣総理大臣とし

て内閣を組織するまで、新生日本の政治組織はさまざまな改革を経たのである。

さて、1868年10月23日明治元年・慶応・4年9月8日)に、明治改元

を発し、年号を「明治」と改め、慶応4年を1月1日よりさかのぼって明治元年

とした。

明治新政府は、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗する為に、天皇を中心と

した中央集権国家の構築を目指し、矢継ぎ早に改革を断行して言った。

(続く)