ヨーロッパと日本(29)

1874年5月6日(明治7年)台湾へ軍事出兵する。さて3年前の1871年(明

治4年)10月琉球の御用船が台風で難破し、台湾南部に漂着した。乗員69名

(内3名溺死)は台湾先住民に囚われの身となり、内54名が殺されてしまう

明治政府は清国へ賠償を要求するが拒否され、外交経験もなく国際慣習も知ら

ない明治政府はどうしようもなく、その後3年間も放置される。しかし清国駐在の

アメリカ合衆国総領事より「懲らしむるべし」との忠告を受けた明治政府は、征韓

論の対立や、廃藩置県による士族の失業などの不満などで世の中がざわめい

ている中、大久保は台湾出兵を計画する。陸軍中将西郷従道は政府の明確な

指示がないうちに3,000名を率いて出兵させる。5月6日に台湾南部に上陸、

5月22日本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を占領してしまう。この

台湾出兵については、何事も無知だった明治政府は、清国や清国に権益を持つ

列強に対して通達・根回しなどは行っていなかったため、国際問題になりかけた

がイギリスの駐清公使トーマス・ウェードの斡旋で清国が賠償金50万両

(テール)を日本に支払うことで、日本の征伐軍は撤退することになる。又この結

果帰属がはっきりしなかった琉球は、日本に帰属することが国際的に認知され

た。又この台湾出兵をめぐる意見対立から長州の木戸孝允までもが職を辞して

いる。

1875年1月22日~2月11日(明治8)明治政府の要人達が立憲政治への

改革や政府復帰について打ち合わせが持たれた。大阪会議と呼ばれる。

多くの要人が政界から去り、地租改正も混乱を極め、政局は混迷を深め大久保

も頭を痛めていた。長州五傑の1人井上馨はこの情勢を憂い、伊藤博文と共に

大久保と木戸・板垣たちとの連携を試みる。

先ず1月22日木戸と板垣1月29日木戸と大久保の会談がもたれた。当初

大久保は議会政治には懐疑的であった。欧米列強の圧力に対抗する為には

天皇の権威の下薩長に権力を集中した方が法整備や国力の増進が図れるもの

と考えていた。しかし木戸の説得や板垣を取り込んでおくほうが安心との考えか

ら態度を変えてゆく。そのため3者の思惑が一致し、2月11日井上馨伊藤博

たちが同席し、木戸孝允大久保利通板垣退助との3者会議が、もたれる

ことになる(大阪会議)。この3者合意に基づく政体改革案は、直ちに太政大臣

三条実美(さねとみ)に提出され、4月14日の「立憲政体の詔書が発表され

ることとなる。そして木戸・板垣の政府へ復帰も決まる。

1875年4月14日(明治8)立憲政体の詔書明治天皇より発っせられる

現代語訳をWikipediaより引用する。

朕は即位の初めに群臣を集めて「五箇条の誓文」を神々に誓い国是を定め

万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着き

を得た。顧みるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引き締めたりす

べき点が少なくない。朕は今、「五箇条の誓文」の主意を拡充し、ここに元老院

設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、又地方官を召集し

て民情を通じ公益を図り、漸次国家立憲の政体を立て皆とともに喜びを分

ちたい。皆も、守旧(古い慣わしを良い物として持ち続ける事)することなく、また

急進することもなく、よくよく朕の主旨に従って補佐しなさい御名御璽

立法・司法・行政の三権を司る役所を作り、着実に立憲政体を確立してゆけ、と

言う内容。

政府に復帰した板垣だが、地方官会議の権限のあり方や江華島事件の処理を

めぐり意見が対立し、参議を辞してしまう。木戸も持病が悪化し発言力を弱めて

行き、結局は半年にして大久保の独裁体制に戻った形になってしまう。

一方岩倉具視は、これに対して、国体一変のおそれがあるとして詔書には反対

であった。しかし、立憲政体・議会政治の方向性が示されたという点におい

ては、意義のある会議となった。

1875年9月20日(明治8年)には江華島事件が発生する。朝鮮は明治維新

政府の国書の受取拒否を貫いていたが、業を煮やした日本政府は1875年5月

25日、軍艦を派遣して朝鮮側を挑発した。そして更に9月20日には日本軍艦雲

揚が挑発行動をとったたる、江華島砲台より砲撃を受ける。翌日今度は日本側

が艦砲射撃を行い、陸戦隊と海兵隊を上陸させて江華島砲台を破壊する。朝鮮

政府はこのことに衝撃を受け、鎖国攘夷の姿勢を改め日本との国交回復を検討

し、1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)が締結される。

これで日本は、清国の介入を避ける策を講じつつ極力戦争を回避しながら、朝

鮮との懸案となっていた近代的な国際関係の樹立を達成することとなる。日本

は事前にペリーの交渉姿勢を徹底的に研究し、交渉から条約に至るまで模倣し

たと言われる。

(続く)