1875年9月20日(明治8年)には江華島事件が発生する。朝鮮は明治維新
政府の国書の受取拒否を貫いていたが、業を煮やした日本政府は1875年5月
25日、軍艦を派遣して朝鮮側を挑発した。そして更に9月20日には日本軍艦雲
揚が挑発行動をとったたる、江華島砲台より砲撃を受ける。翌日今度は日本側
が艦砲射撃を行い、陸戦隊と海兵隊を上陸させて江華島砲台を破壊する。朝鮮
政府はこのことに衝撃を受け、鎖国攘夷の姿勢を改め日本との国交回復を検
討し、翌1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)が締結される。これで
日本は、清国の介入を避ける策を講じつつ極力戦争を回避しながら、朝鮮との
懸案となっていた近代的な国際関係の樹立を達成することとなる。日本は事前
にペリーの交渉姿勢を徹底的に研究し、交渉から条約に至るまで模倣したと言
われる。
1876年3月28日(明治9年3月28日)廃刀令が発せられ、更に士族の俸給
である秩禄が減らされ(秩禄処分)たことなどにより、不平士族の反発がつのり
各地で士族反乱が起きた。そして、
1877年(明治10年)に薩摩士族の挙兵に西郷隆盛が担ぎ出され、西南戦争
が勃発する。いずれも政府軍に鎮圧される。その最中、木戸孝允も病没、
更に
1878年(明治11年)紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治新政府
大久保利通亡き後、明治政府は何時立憲体制に移行するか、悩みの種であっ
た。上述したように岩倉具視は国体を一変させると立憲体制に消極的であっ
た。その中で、伊藤博文や井上馨の長州閥は「立憲政体の詔書」にあるよう
に漸次移行すべきとの考えを持ち、反対に大隈重信(参議・大蔵卿、備前藩出
身)はやや急進的な考えを持っていた。
明治6年の政変で野に下っていた板垣退助や後藤象二郎らは政府に「民撰議
院設立建白書」をその翌年の1874年1月17日(明治7年)提出している。
自由民権運動のはしりとなるものであった。その直後征韓論での軋轢を契機に
旧佐賀藩士を中心とした佐賀の乱が1874年2月に起こっている。江藤新平が
この乱に巻き込まれ、死刑裁判で処刑されている。その後秩禄処分(1876年)
での氏族の不平不満に加えて地租改正(1873年~1880年)での重圧による
農村指導者層へも不平不満は増大し、民権運動は盛り上がりをみせた。これら
の動きへの対応から立憲体制に消極的だった岩倉具視も、立憲体制のへの移
行の必要性を感じ、1880年に入り検討を開始した。
(続く)