ヨーロッパと日本(36)

18.富国強兵

江戸時代の京都の治安維持の任務は、京都所司代と言う役職が当たっていた。

所司代とは、所司の代理と言うのが本来の意味であるが、元々「所司」とは、鎌

倉・室町時代の軍事・警察を担当する「侍所」と言う組織の長官の名称であった

が、江戸時代は侍所を置かずに、京都所司代がそれらに倣って設けられていた。

幕末の動乱期にはその上に「京都守護職」を設けて、治安の維持を図らなけれ

ばならないほど混乱していた。京都守護職京都市中の治安維持と御所、二条

城の警護などの役割を担っていた。1862年9月24日(文久2年8月1日)会津

藩主・松平容保(かたもり)がその職につく。1868年1月3日(慶応3年12月

日)の「王政復古の大号令」により薩摩と長州が政治の支配権を獲得した為、

廃止されている。

最も貧乏くじを引いたのは、会津藩であった。会津藩は、当初守護職への就任を

かたくなに固辞していたが、一橋慶喜や福井の松平春嶽等に再三に渡って就任

を要請されたため、しぶしぶその任についている。そのため戊辰戦争では、最後

まで幕府側にたたざるを得なかったため、1868年11月新政府軍に滅ぼされて

しまったのだ。

明治元年5月24日1868年徳川氏が江戸から駿府70万石に移されること

が決まると、政府は江戸が帝都に適しているかの検討を始める(慶喜は7月に

駿河に移る)。明治元年7月7日に遷都可能の判断を下す。そして7月17日

戸を称して東京と為すの詔書が発せられる。そして天皇明治元年9月20

日、京都を出発し10月13日に江戸城に到着、江戸城はその日の内に東幸(東

京への行幸)の皇居と定められ、江戸城は東京城と改称された。東京への行幸

(東幸)には、長州・土佐・備前岡山藩)・大洲藩(愛媛県伊予国)の4藩の兵の

3,300名がその警護に当たった東京奠都てんと、都を定める)の後は

州藩部隊が東京城の警護当たった

西郷隆盛鹿児島藩薩摩藩版籍奉還後名前)の政務に当たっていたが、新

生軍隊の編成のために新政府に呼び出され、明治4年1月4日東京へ向け出発

する。しかし中央での政策に関する対立などの政争の深刻化に嫌気が差し、自

らは専ら与えられた軍隊編成だけに力を注ぐことになる。そして明治4年2月

13日1871年)、薩摩、長州、土佐の兵およそ8,000人を以って入京する。

そして正式に「御親兵」として発足する。

薩摩藩 歩兵4大隊、砲隊4隊

長州藩 歩兵3大隊

土佐藩 歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊

御親兵は名目上兵部卿有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)を長とし、公称は

1万人であった。日本最初の国軍の誕生である。

(続く)