ヨーロッパと日本(37)

しかし御親兵の維持にはそれなりの財政的な基盤が必要となる。それにより税

制の改革への機運が盛り上がり、明治6年(1873年7月28日)の地租改正

の公布となる。

1873年1月10日明治6年)には徴兵制制定され、御親兵はその役目を

新軍隊に譲って本来の皇居警護の任務に専念することとなる。明治5年(1872

年)には近衛と改称され、明治24年(1891年)には陸軍の近衛師団となった。

日本陸海軍の兵制は、明治3年10月2日の太政官布告により、海軍は英国式、

陸軍はフランス式を採用した。その後陸軍は、明治20年に陸軍大学校教官とし

て来日したドイツ陸軍のメッケル少佐の勧告をもとにドイツ式の軍制に転換して

いる。

以下、恵隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏著の「敵兵を救助せよ!」(草思社)を

引用しながら説明しよう。

明治新政府は、明治2年9月18日、東京築地に「海軍操練所」を開設し、海軍

士官の養成を図る。翌明治3年11月、「海軍兵学寮」と改称し、明治4年2月か

らは生徒を欧米両国に海軍留学生として派遣を始める。明治9年9月1日、「

兵学校」と改称、明治21年8月1日には校舎を広島県江田島に移している。

海軍兵学寮の兵学頭(校長)に、佐賀県出身で函館沖海戦では維新政府軍軍

艦の「朝陽」艦長として参戦した中牟田倉之助少将(当時34歳)を就任させる。

ここで中牟田は、新生海軍の人材教育には英国海軍士官の招聘が第一として

政府に建議した。

英国政府は日本からの要請を応諾し、明治6年7月27日アーチボルト・ダグ

ラス少佐(当時31歳、後大将)以下士官6名、下士官12名、水兵16名の合計

34名を派遣してきた。そして中牟田はダグラスに学校運営の殆ど全て任せた。

ダグラスは英国海軍兵学校の士官教育システムに、パブリックスクールの紳士

教育を融合させ、更にはキリスト教の教義を取り入れた精神教育を行った。要す

るに世界に通用する海軍士官を養成するために、英国海軍士官を目標とした

ものである。そして、「士官たる前に紳士たれ」と言う精神は、昭和20年10月、

兵学校の閉校まで継承されたのである。

それにダグラスにとっては、未開の野蛮人に教育をすると言う感覚をもって学業

にあたったようだが、日本人学生の理解力の鋭敏さに驚愕したのである。そん

なわけでキリスト教の教義を取り入れた精神教育も行ったのであろうと、小生は

理解する。

また日本海軍航空隊国海軍の教育を受けている。当時航空戦力も列国に

比べ大幅に遅れていた。日本海軍はその航空戦力を構築するため、大正10年

7月1921年)、英国海軍の飛行将校30名を「ミッション」として招待し、

約1年4ヶ月にわたって霞ヶ浦海軍航空隊で訓練を行わせた。

ミッションと言う形になったのは、当時英国内に、米国に影響されて日英同盟

棄の機運がおこっており、英海軍から正式な派遣が不可能となっていたからだっ

た。

(続く)