ちなみに日英同盟は、1902年(明治35年)1月30日に調印され即時発効
し、1923年(大正12年)8月18日に失効した日本とイギリスの間に結ばれ
た軍事同盟で、調印の2年後の1904年(明治37年)から始った日露戦争で
は、日本に対して好意的中立を保ち、日本を大いに助けている。1914年から
1918年にかけて勃発した第1次世界大戦では、イギリスの要請を受けてドイツ
に参戦し、1914年10月31日~11月7日、イギリス軍とともに当時のドイツの
租借地チンタオ要塞を攻撃している。なお1917年(大正6年)にはロシア革
命が起こっている。そして1921年11月12日から1922年2月6日の間、
ワシントンでの国際軍事会議が開かれている。アメリカは日本の太平洋への
進出を防止するために、日英同盟の廃止と日本に対して艦隊の縮小を意図す
る軍備拡大競争の排除を提案する。そしてアメリカは、日本政府から代表団へ
の暗号電報を傍受・解読したことで、会議を思うままに進めてしまった。諜報活
動の重要さを示す一例である。
さてこの飛行教育ミッションの団長は、当時2844歳の英海軍大佐ロード・
センピルであった。日本海軍航空隊のレベルは稚拙で、宙返りはもってのほ
かで、長距離飛行もままならなかった。そんなレベルの集団に、センピルたちは
空中戦、急降下爆撃、空母着艦等を指導していった。センピル大佐の指導は
スパルタ式で、その厳しさは江田島の比ではなかった。彼らの指導は、操縦、
射撃、爆撃、写真、通信、航法、機体及び発動機の整備など多方面にわたり、
日本海軍航空隊はそれらを学び航空戦力の基礎を確立していった。その成果は
きわめて大きく、海軍航空隊の教育訓練方式や内容は、面目を一新すること
となる。
ちなみに、センピル夫妻は滞在中日本文化に魅了され、自らその嗜好にあった
村の旧家を借りて住み、村民とも積極的に交流し、夫人はボランティアで英語教
室も開講している。戦後センピル大佐は日英関係の修復にも尽力し、昭和36年
6月に勲二等瑞宝章を受章している。そして孫のイアン・チャン・センピル陸軍
中佐の証言によると、日本海軍による真珠湾奇襲の報道を聞いたとき祖父は、
日本海軍のポテンシャルの高さに驚愕したという。
センピルにすれば、1921年に来日してわずか1年4ヵ月の指導から、20年そこ
そこで、そこまで進歩したのかとの思いがあったのであろう。
(続く)