日本は侵略国家ではありません。(4)

以下参考までに田母神論文の全文を載せる。

(1)

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これを

アメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいている

からである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は

日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知ら

れていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めること

になるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国

政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争日露戦争

どによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等

に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締

結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力

を伴わない条約など存在したことがない。

(2)

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大

規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の

横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族

などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し

日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのであ

る。実は蒋介石コミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 国共合作

よりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込ん

でいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終

的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度

重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 8 15 日、日本の近衛文麿

は「支那軍の暴戻ぼうれいを膺懲ようちょうし以って南京政府の反省を促す為、今

乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争

きずり込まれた被害者なのである。

(3)

1928 年の張作霖列車爆破事件関東軍の仕業であると長い間言われてきた

が、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断

定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン講談社)」、

黄文雄大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴力」を

磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業

いう説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 7 7

の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われて

た。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党劉少奇が西側の記者との

記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だっ

た」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間店)」。も

し日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国

家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいと

いうことにはならな

いが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

(4)

我が国は満州朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時

列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。

我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。

帝國は、成立当初の1932 1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100

万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたの

である。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が

良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まる

わけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の

間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本

統治下の35 年間で1千3 百万人の人口が2千5 百万人と約2 倍に増えている

朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠であ

る。戦後の日本においては、満州朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によっ

て破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努

力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段

に向上したのである。

(5)

我が国は満州朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れ

た。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年に

は朝鮮に京城帝国大学1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政

府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北

帝国大学は7 番目に造られた。

その後8番目が1931 年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学

いう順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国

学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への

を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊ホンサイク

という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26 期生で、硫黄島で勇名をは

せた栗林忠道中将と同期生である。

朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金

キン錫源ソグォン大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約

1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国中国軍を蹴散らした。その

軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名など

していない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊

で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽カオウキンもいる。

(6)

李王朝の最後の殿下である李垠

イウン

殿下陸軍士官学校の29 期の卒業生である。李垠イウン殿下は日本に対する

質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は

殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒

になった。

陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠イウン殿下のお妃となら

れたのが日本の梨本宮方子まさこ妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候

補であった高貴なお方である。

もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠イウン殿下のも

に嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930

新居を建設した。

現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝

であった溥儀フギ殿下の弟君であるケツ殿下のもとに嫁がれたのは、

本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

(7)

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や

台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつく

であろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはな

かった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリス

の王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、

アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和

唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを

に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なこと

である。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約

に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。

現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

(8)

時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我

が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。

その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600 名の兵を置いた「廬

溝橋事件の研究(秦郁彦東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との

4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求

について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要

求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおか

しなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の

1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21

条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなど

日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡

昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を

めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置

かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600

にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦東京大学出版会) 」。このとき

北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠

い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方

針であり、それは今も昔も変わらない。

(続く)