1991年、ロー・スクールをトップ10%に入る成績で終了し、シカゴ大学の法学
特別研究員となり、後の'92~'04の間合衆国憲法の講義を持つ。弁護士となった
オバマ氏はシカゴに戻り、小さな法律事務所に身をおき、黒人の有権者登録の
手助けをする。この活動は民主党の支持層の掘り起こしに役立ち、結果として
1993年のクリントン政権の誕生をも支えたと言う。この頃までは、結局は叶わな
かったが、オバマ氏はシカゴ市長になることを目指していたと言う。
1992年、ハーバード大学のマーサ・ミノー教授の推薦で、彼女の父のニュート
ン・ミノー氏のシカゴ市中心部にある大手法律事務所、シドリー・オースティン
で働くことになる。そこで先輩格のミシェル・ロビンソンが彼の教育係に任命さ
れる。そして同年、2人は結婚する。
ニュートン・ミノー氏は地元シカゴのユダヤ人社会の有力者であり、ミシェル・ロビ
ンソンはデーリー・シカゴ市長の補佐官に就任し、夫々オバマ氏の人脈作りの核
のなるのである。
1996年(~2004年1月)、イリノイ州議会上院議員に当選し、念願の政治家
の道を進むこととなる。この州上院議員の民主党の予備選は、自分の支援者
だった先輩議員が自分の対立候補となる。しかし、先輩議員の有権者推薦人の
署名に不備を見つけて「無効」を申し立て、追い落としている。
変革を訴えたオバマだが、地元では、「タフで抜け目のない現実主義者」との
見方が専らと言う。州知事のブラゴジェビッチ氏は罷免されてしまったが、同様に
贈賄罪などに問われている地元開発業者の重鎮トニー・レツコ被告からは、巨額
献金を受け、自宅まで購入していると言う。
オバマの地元のシカゴは、「政治の大リーグ」と表されていると言う。土建・開発
利権が幅を利かせ、地方議員がそれを牛耳っていると言う。州知事のスキャンダ
ルもこの範疇に属する物なのか。オバマ氏は決して経験不足ではないと、地元
のマスコミ関係者は言っている。(この上記3つの項は1月16日東京新聞「オバ
マの時代NO.4」を引用している。)
2000年には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも見事落選するが、この間
シカゴで黒人社会との付き合い方を学んだと言う。
2004年7月の民主党党大会(ジョン・ケリー上院議員を民主党大統領候補に
選出した)の2日目(27日)に基調演説を任される。オバマ氏は上院議員選挙の
民主党候補者に決まっており、雄弁でもあり、大統領選挙でもマイノリティーの有
権者をひきつけられるであろうと期待されたからである。
「 リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ブラックのアメリカもホワイトのアメリ
カもラティーノ(ヒスパニック系)のアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただアメリ
カ合衆国があるだけだ。
イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、皆同じ忠誠を誓うアメリカ人
なのだ。」
と有名な語り掛けを行い、一躍有名となる。
(続く)