バラク・フセイン・オバマ大統領(16)

(4)オバマはなぜベトナムの「ケサン」の地名を語ったのか。

(就任演説の第13節目)

「(2)仏教徒を無視した大統領」の項で次のように第10節を引用した。

Rather, it has been the risk-takers,the doers, the makers of things – some celebrated but more often men and women obscure in their labor, who have carried us up the rugged path towards prosperity and freedom.

リスクをとる者、実行する者、創造する者、著名なと言うよりも目立たずにがん

ばっている男女こそが我々を繁栄と自由へと、長く険しい道を運び上げてく

れたのだ。」

この長く険しい道を、我々を、繁栄と自由へと導いてくれた先人達の足跡を、この

11節から13節ではたどっているのであるが、その13節目にこの地名が出てく

る。

For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and khe Sahn.

この我々のために、彼らは、(独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)ゲ

ティスバーグ、(第2次世界大戦の)ノルマンディーや(ベトナムの)ケサンのよう

な場所で戦い、死んだ。」

この言葉がアメリカでは論争を巻き起こしていると言う。'09.2.6の産経のNET

ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/world/asia/090206/asi0902061803008-n1.htm

(在バンコク・ジャーナリスト 鈴木真氏)とWikipediaによる話を引用させてもらう。

ケサンはベトナム戦争当時の激戦地である。1967年から68年にかけて、ケサ

ンの基地に陣取るアメリカ軍と北ベトナム軍との間で激戦が繰り広げられた。最

北ベトナムに近いところに設けられたアメリカ軍の基地であり、南北ベトナム

結ぶ国道9号線の北側に位置し、北ベトナムからラオスへ通じる補給路のホー

チミン・ルートの破壊を目的にしていた。

北ベトナム1968年1月31日からのテト(旧正月)攻勢に備えて、この基地

が非常に目障りだった。そのため同年1月21日から、北ベトナム正規軍2個師

団はケサン基地に対して、本格攻撃を開始した。ケサン基地は、北ベトナム

規軍2万人に、西と北から攻められて孤立した。補給路を断たれたアメリカ軍は、

ディエン・ビエン・フーの戦いのフランス軍と同じく空路での補給を余儀なくされ

た。2月には北ベトナム軍は予備兵力も投入し、人的被害も顧みず、24,000

人が6,200人のアメリカ軍を攻め立てた。このためアメリカ軍は、77日間の戦

闘期間中1,200回近くの空輸を行い、空軍、海軍、海兵隊の各航空部隊が協

力し合い、B-52戦略爆撃機を数千回も出撃させ「ナイヤガラ」作戦を実行し

た。11万トン超の爆弾を投下し、北ベトナム軍に出血を強いた。この爆撃だけで

北ベトナム軍は5,000人が犠牲となったと言われている。そして4月なると戦

力に余裕の出てきたアメリカ軍はようやく地上から北ベトナム軍をこの地域から

駆逐することが出来た。しかし戦術的には勝利しても、ケサン基地を維持するに

は相当な出費が必要なことなどから、同年7月にはケサン基地を破壊して

することとなる。

テト旧正月の期間は、南北ベトナム軍は暗黙の内に休戦期間とする慣例であっ

たが、しかし、1968年1月30日未明北ベトナム軍はこの油断を突いて大攻

勢をかけた。今までの暗黙の休戦は、この日のための見せ掛けの休戦であっ

た。このためタンソンニャット国際空港アメリカ大使館にも猛烈な攻撃が加

えられ、大使館は一時、北ベトナム軍に占拠されてしまった。

また北ベトナム軍とベトコン南ベトナム開放民族戦線は、各都市にも攻撃を仕掛

け占領し、南ベトナム政府関係者などを次々と路上で処刑して言った。アメリカ

軍と南ベトナム軍は空爆などを実施し占拠された都市を奪回してゆき、戦術的

には北ベトナム軍の惨敗に終わったが、戦争の実態が明るみに出るとアメリカ

国内の反戦機運が非常に高まった。また北ベトナムの攻勢に業を煮やしたアメ

リカは、1972年北爆を開始し北ベトナムを休戦協定に引っ張り出すことに成功

する。そして1973年1月27日パリ和平協定を締結し、3月にアメリカ軍は

ベトナムから撤兵する

その後1975年3月10日にパリ協定に違反して北ベトナム軍は大攻勢を仕掛

け、4月にはサイゴンが陥落し4月30日早朝より南ベトナムにいる全アメリカ人

と南ベトナム政府要人の撤退が始る。北ベトナム軍はアメリカ政府と赤十字社

の要請を受け、アメリカ人の完全撤退が完了するまでサイゴン市内に突入は控

えられていた。結局、午前11時30分にサイゴンは陥落した。

(続く)