岡田監督に物申す。(14)

スポーツジャーナリストが
育ちにくい日本

 確かにファンは熱狂する。だが、メディア、とりわけサッカージャーナリズムの中

の者は、そうした雰囲気の中でも敗因をみつけ、将来のチームのために、あえて

それを提示してきたという過去がある。サッカージャーナリズムが、あえてその憎

まれ役を演じてきたからこそ、自国のサッカーが強くなってきたという背景がある

のだ。ファンと一緒に感動している場合ではない。あなた方はそれでお金をもらっ

ている。立場が違うのである。


カメルーンに一勝したときに巻き起こった陶酔状態について考えるべきだ。

ゴールをした選手だけに注目の集まる日本のサッカーは、評論も含めてもっとレ

ベルアップの必要がある」


 オシム前監督が、このように健全な批判精神で日本のサッカー界のために

語っている裏側(民放裏番組)で、サッカー解説者の一人はこう叫んでいた。


「俺たちは誰ひとり代表選手を責めない。日本の誇りだ。胸を張って帰ってこい」


 このセリフを聴くに及んで、日本にはスポーツジャーナリストが育ちにくいことを

改めて確信した。なぜ、日本のサッカー報道はいつもこうなのだろうか。

3
 ベスト8の出揃ったワールドカップは、まさしくこれから佳境に入る。世界最高レ

ベルの選手たちが、世界最高の舞台で、最大の実力を出しきる真剣勝負の時

がやっと始まるのだ。


 サッカーというスポーツを本当に愛し、日本チームのことを思う者であるならば、

敗退した日本代表と、ベスト8に残った上位国の代表のプレーにどのような違い

があるのかを知りたいはずであろう。まさしくそれを知ることが今回の日本の敗

因を分析する最大のチャンスにもなるのだ。


 少なくとも相手国であったパラグアイの個々の選手が、なぜ足元、身体の近い

ところで長くボールをキープすることができるのか程度は、研究してほしいものだ。


 すべてのサッカー評論家やサッカージャーナリストには、これからのワールド

カップの最大の見どころである準々決勝以上の試合について、ぜひとも真の

「感動」を私たちに伝えてくれることを期待する。


日本が負けた途端に
W杯観戦も終わってしまう

 にもかかわらず、残念ながら、日本のメディアでは、すでに今回の南ア大会は

終わったかのような扱いになっている。


 いつものことではあるがが、大会から日本チームや日本人選手が消えれば、

それで取材も事実上、終わってしまうのである。


 それは、ファンにもいえる。真のサッカーファンであるならば、今後、見られるで

あろうスーパープレーの数々に、期待で胸をときめかせるのが普通である。


 日本代表が敗れたからといってサッカー観戦をやめるのは、それは「サッカー

ファン」ではなく、単に「日本人ファン」に過ぎない。


 そして、そうしたファンに同調してしまうサッカー関係者の多いのが実際であ

り、それが日本のスポーツジャーナリズムの大方の現状であるのだ。


「明日の日本のサッカーが、今日のサッカーよりも良いサッカーになることを期

待している」


 オシム氏は自身へのインタビューをこう語って締めた。


 オシム氏が特別に厳しいわけなのではない。世界のサッカー界では、この程

度の敗戦後の批評・分析は当然に行なわれている。日本だけにそれがないの

である。


 残念ながら、サッカー評論家たち自らが、敗戦後に「感動したり」、「勇気をも

らったり」しているようでは、何年経とうが、私たちが日本代表の「ベスト4」をみる

ことはできないであろう

http://diamond.jp/articles/-/8609

            

        
そして「岡ちゃん、ごめんね」なんぞが本年度の流行語大賞を受賞するようなら、

日本の「ベスト4」はまだまだ先のことだと弁えるべし、としなければならないだろ

う。往々にして、日本人はその言葉の裏にある意味を飛ばしてしまいかねないか

らだ。その後に続くべき言葉は、先にも述べたが、「予選突破は見事だった。し

かし、パラグアイ戦ではなぜ点が入らなかったのか。点を入れるためには、何が

欠けていたのか。監督として、ベスト4に向けてやり残したことは何か。」なので

ある。もし受賞するとしたら、次のような言葉が妥当であろう。


「岡ちゃん、ごめんね」
「だけど何が足らなかったの」


その足らなかったことを簡潔に言い表した言葉であれば、「流行語大賞」に値

する。そうでなければ日本チームの進歩は、ない事はないが、遅々たるものにな

るであろう。

(続く)