中国の歴史書の「史記」には、
紀元前11世紀頃に殷王朝の一族の箕子(きし)が朝鮮に渡り「箕子朝鮮」を
開国した、と記されている。丁度この頃中国では、殷王朝が周の武王に滅ぼさ
れている。
そして前漢の時代、反乱に失敗した燕王の臣下であった衛満が朝鮮に亡命し、
前194年に箕子朝鮮を追放して「衛氏朝鮮」を建国する。
前108年、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、満州から朝鮮北部に「四郡(楽浪
郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡)」をおく。『漢書』地理志(誌にあらず、地理の分
野と言った意味)に、「楽浪海中倭人分為百余国以歳時来献見云、”それ、楽浪
海中倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。”」とある
のは、ご存知のことであろう。これは1世紀初頭のことである。
これは、http://kon.main.jp/jdat/dat/kofun/knjyo_1.htmを参照している。
そして前2世紀から4世紀にかけて、朝鮮の南部には「三韓(馬韓、弁韓、辰
韓)」が存在している。朝鮮半島の南部は、韓と呼ばれていた。
そして、紀元前37年には、漢の四郡のあった満州南部から朝鮮南部まで領有
することとなる「高句麗」が誕生する。313年には楽浪郡が高句麗に滅ぼされて
いる。高句麗は北方のツングース民族による国家である。355年には、遼東半
島を占領した北燕に攻め込まれて、朝貢することになる。この時から中国より
冊封される事となった。冊封とは、自分の地位を認めてもらうことにより、認めて
くれた国の属国となる事を言う。
346年に百済、356年に新羅が興り、高句麗と共に4世紀から7世紀まで
の「三国時代」となる。
369年には、倭軍は新羅をを破り、半島南端の加羅(任那)に進出する。391
年には、倭が百済、新羅と戦いこれを破り、臣民とする。(広開土王碑)
この頃(369年から562年、Wikipediaによる)朝鮮半島南部先端に任那が存在
していた。倭国の支配地域とされている。そしてこの朝鮮半島南西部地域には
13基の前方後円墳が発見されており、更には糸魚川周辺からしか産出されな
いヒスイの勾玉が同時に多数産出されていることからも倭(大和)国の勢力が確
実に及んでいたことも事実であろう。
さらに宋書倭国伝によると、451年宋の文帝は、倭王済(允恭天皇か)に
「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと言う。
また、487年には、宋の順帝は、倭王武(雄略天皇か)に「使持節都督倭・新羅
・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと言う。
広開土王碑は、1880年(明治13年)頃に清国の集安(中国吉林省集安市)の
農民により発見された。これは、高句麗の第19代の好太王(広開土王)の業績
を称えた碑文であり、付近には大王陵がある。1881年には清国サイドにより拓
本が作成された。1884年には日本陸軍砲兵大尉の酒匂景信氏が拓本を作成
し、参謀本部に持ち帰り解読した。(酒匂本)
広開土王碑の倭の進出を記述した辛卯年条(391年)の解釈を次に記す。
「そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯
年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」(ウィキ
ペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)
これには馬鹿な朝鮮人学者達は異論を唱え、大日本帝国陸軍による改鼠・捏
造があったと主張した。そして本来の意味は、次のようだと主張した。
「百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがては辛卯年以
降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。」
この意味は、好太王の華々しい活躍を述べるという碑文の構成からしても、おか
しいものと看做されており、その後、2005年6月23日に 酒匂本以前に作成さ
れた墨書が中国で発見され、その内容が 酒匂本と同一であることが判明した。
更には、1881年に作成された現存最古の拓本と 酒匂本とが完全に一致して
いることが発表され、これにより改鼠・捏造説は完全に否定された。しかし韓国
ではいまだに上記の間違った解釈が支配的であるという。だから韓国は馬鹿な
国なのである。その馬鹿な国に竹島を占領されている日本こそ大馬鹿な国なの
であろう。
(続く)