日韓併合100年(9)

更には高句麗の領土が満州の一部と遼東半島朝鮮半島の北半分を領有して

いたため、中国と韓国の間で論争が起こっている。高句麗は中国の一地方行政

府であるとの中国の主張に対して、韓国は、三国時代として百済新羅高句麗

と同じ位置に三国が存在していたのになぜ高句麗だけが中国の地方政権か、

また当時中国には一貫して中央政府と呼べる統一王朝などは存在していない、

などと反論している。そして韓国は、莫大な予算を投じてシンクタンクを設立さ

せ、高句麗は中国の地方政府ではなく朝鮮の正当な一国家だったと論争を吹っ

かけ、世界各国のメディアなどに意見広告を出し、官民合わせて抵抗している。


そのうちに尖閣諸島などを中国に盗られてしまいかねない対応をしている菅、

仙石の民主党内閣とはその決意に大きな差があり、菅首相や仙石菅防長官は、

大馬鹿で韓国人の爪の垢でも煎じて飲んで、大いにこれらの事実を学んでもら

いたいものだ。('10.10.20記載)

さて倭軍に攻められた百済397年百済王の息子を人質として倭国に送り、

国交を結ぶ。度々攻め込まれていた新羅402年倭国に王子を人質として差

し出している。それまで新羅高句麗に救援を求めていたが、新羅と国交を結

んだ倭国404年高句麗帯方郡(現在の北朝鮮南部)まで攻め込んだ

が、高句麗軍に撃退されている。


新羅は564年に中国の北斉、568年には南朝にも朝貢して、
冊封を受け

ている。そして紆余曲折はあるものの、以後新羅では中国との宗属関係を維

して行くことになる。


冊封
(さくほう)とは、称号・印章などを授けることにより「天子」と近隣諸国の長

とが名目的な君臣関係(宗属関係、宗主国と属国の関係)を結ぶ外交関係の

こと、とWikipediaに書いてある。


さてその中国は、581年
が興り、600年には日本から聖徳太子により

隋使
が送られている。隋は高句麗に4回も攻め入るが、すべて撃退されてい

る。このため隋の滅亡が早まったと言われている。


その隋も、618年に取って代わられている。唐の太宗は2回、更に高宗は

3回も高句麗に遠征軍を派遣したが、いずれも高句麗は負けることがなかっ

た。このため高句麗百済と同盟を結び、当時唐と同盟関係にあった新羅を攻

めた。新羅は唐に援助を頼み、そのため唐は、660年高句麗と友好関係に

あった百済を攻めて滅ぼしてしまった百済と友好関係にあった倭国は人質で

あった百済王子と共に兵を派遣し、663年(天智2年)倭国百済遺民連合軍

は、唐・新羅連合軍朝鮮半島白村江(はくすきのえ)の海・陸の会戦で大

敗し、半島から手を引くこととなった。そして668年、唐・新羅連合軍は高句麗

の都の平壌を攻め、高句麗王らは捕虜となり、高句麗は滅亡する。このとき多

数の高句麗人が日本に亡命したと言う。狛、高麗(こま)などの名称はその名残

であろう。


しかし、670年から唐に占領されていた百済領の支配権をめぐり、新羅は唐と

対立し争い676年に唐軍を朝鮮半島から追い出し、旧高句麗領の南半分(半

島北部分)をあわせて朝鮮半島をほぼ統一した。これは「統一新羅時代」と呼

ばれている。


このため唐と新羅は仲が悪くなったが、このとき満州遼東半島付近には「渤海

国」があった。唐はこの渤海と696年に戦端を開き、新羅に援軍を頼み新羅

渤海への攻撃により、唐と渤海は和解が成立する。この功績により、新羅

735年唐より冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐より正式に認めら

れた。そして唐の律令制度を取り入れ、新羅独自の年号を廃止し、唐の年号を

用い更には先祖伝来の姓や名までも中華風に改めている。この間新羅は日本

にも朝貢し良好な関係を保っていた。


そして780年以降王位継承争いが激しくなり、反乱が頻発し、892年に地方に

後百済901年高句麗が建国され「三国時代」と為る。そして918年

高句麗の武将王建が後高句麗王を追放して高麗を建国する。935年には、

後三国を統一して「高麗」が朝鮮半島の統一国家となる。


この時中国は五代十国の戦乱時代が終わりに近づき、960年によって

統一される。すると高麗宋に朝貢している。


北方民族では926年契丹民族の渤海を滅ぼし、度々高麗に攻め入って

いた。百年近く続いた高麗への侵攻も1020年には講和が成り、高麗契丹

遼にも朝貢することとなる。遼はその後1125年女真族の金に征服され

ると、翌1126年には高麗は金にも朝貢する。このとき中原から南中国には南

宋が存在していたが、に取って代わられる。1230年以降からモンゴル帝国

の元のチンギスに朝鮮半島は徹底的に荒らされる。結局1259年高麗

ンゴル帝国に服属
する。平定したモンゴルのクビライは、1274年(文永の役

1281年(弘安の役の2回、高麗・蒙古連合軍として九州北部を襲った。

元寇である。これは高麗の忠烈王が元に日本進攻を盛んに働きかけたことから

始まったものである。「高麗史」には、そのような記述がある。そのことにより忠

烈王が、半島に駐留する元軍を後ろ盾にして、自身の政治基盤の強化を図った

ものと見られている。

以後高麗元王朝に取り込まれ、元の完全な属国となる。

(続く)