日韓併合100年(11)

以上ざっと朝鮮を中心とした東アジアの歴史状況を見てきたが、朝鮮が清朝

中心とする冊封体制から離脱するには、
日清戦争下関講和条約締結

1895年まで待たねばならなかったのである。


朝鮮の地位は、中国の属邦の中でも最も低く、下国の中の下国であった。例え

ば天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣

だけは黒色の丸首の衣である。また、琉球の使臣は駕籠に乗って宮廷に入る

のに対し、朝鮮の使臣は駕籠に乗ることを禁じられていたと、ユンキムの『渓陰

漫筆』に書かれている。そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けてい

たと嘆いている。これは黄文雄の『韓国は日本がつくった』の一文である。

中国は尖閣諸島を盗むために琉球はもともと中国の属国であった、などとも言

い触らしている様だが、このことを見ても琉球は中国からは独立した地区であっ

たことがよく分かる。


読者諸兄は、牡丹社(ぼたんしゃ)事件と言う言葉をどこかで耳にしたことがある

ことと思う。これは、1871年(明治4年)12月琉球宮古島の島民69人が台

風のため台湾東南海岸の八搖湾に漂着し、台湾先住民のパイワン族の村・牡

丹社の住民に襲撃を受け日本の臣民54人が殺害された事件である。

(注)八搖湾の搖は、正式にはテヘンでなく王ヘンである。バツヤウと読む。

このため時の明治政府は、清国政府にその賠償を求めた。しかし清国は台湾

は「清国の管理がなされていない未開の地(化外ケガイの地)」として、この要求

を突っぱねた。そのため台湾は「無主の地」とみなし、琉球住民殺害の報復とし

1874年(明治7年)4月、台湾蕃地事務都督に任命された陸軍中将西郷従

道は、3600の兵を率い、軍艦で出兵した。日本西郷軍の牡丹社征伐は、戦死

者はわずか12人であったが、現地の風土病のマラリアのために525人もの犠

牲者を出して終了した。



清は当然日本の台湾からの撤兵を要求したが、日本は清国の台湾領有は「蕃

地(居留地)」に及ばないことを主張し、これを拒否した。内務卿の大久保利通

は、台湾は「化外の地」として、清国政府の領有と主権を認めなかった。この

交渉は1874年(明治7年)10月に英仏両国の公使の仲介により、「日清両

国間互換条約
」が調印される。これにより清国は、賠償金として50万両(75

万円)と琉球の日本帰属を認めたのである。しかしその代わり台湾の全島の清

国の領有を日本が認めたのであるが、しかし乾隆帝時代に編纂された正史・

『明史』の「外国伝」には「鶏龍国(台湾)は日本に属する」とはっきり記されて

いたのであるから、台湾は日本領であると主張しても良かったのである。以上

黄文雄の『捏造された日本史』(日本文芸社)の冒頭に記されているもの

の概略である。


尖閣諸島は中国領などと主張したら、「尖閣も台湾も日本領だ」と主張しようで

はないか。

(続く)