日韓併合100年(13)

この書籍では、「統一新羅の時代から李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主国の元、

明、清へと貢女を進貢してきたとの記録もある」と述べている。「婚姻の習慣から

言えば、古代朝鮮は売春婚の国である。中華帝国をはじめとする北方諸王朝

への
貢女の献上は、古代からすでに有名だったのだ。とくに元の時代、モンゴ

ル人の百数十年に渡る長期支配化では、貢女、娘の供出の催促が厳しかっ

た。」と記されている。そしてこの貢女の歴史は、中国の歴史書だけでなく、『韓

国通史』(学生社)などの韓国人学者による通史にも散見できる、とも記されている。

        

元の時代の朝鮮は高麗朝である。あの元寇高麗・元の連合軍が九州北部

を襲ったことは先にも述べたが、その高麗である。もともと朝鮮は朝貢国家で

あったために、古くから貢女の習慣はあったようで、先に見たように朝鮮の朝貢

の歴史は高句麗の355年北燕朝貢から始まっている。朝鮮の歴史はこのよう

朝貢の歴史であり、朝貢品の中には必ずや
奴婢などの奴隷が含まれており

性奴隷」として扱われていた。貢女の献上は古代からすでに有名だったと黄氏

も述べているように朝鮮の歴史でもあったが、とくにモンゴル人によるむすめの

供出の催促は厳しかったために、高麗朝の貴族社会にとっては、かなりの苦痛

であったと言われている。献上するむすめは「処女」でなけばならず、明や清の

時代にもそれが受け継がれ、美女で処女であることが原則で更にはその身分も

それなりに高いことが求められた。そのため朝鮮国王の妹や王女、あるいは王

室や大臣の娘が好ましいとされた。そして両班の娘、またはその妾(めかけ、こ

しもと)が望ましく、それ以外の地位のものを貢女としてはならないとされていた。

誤魔化そうとした場合には、厳しく罰せられたと言う。

       

そして黄文雄氏は次のように史料を上げて説明している。

        

1274年、と言えば文永元年の文永の役の年であるが、元寇のために元は南

宋の軍人を朝鮮に派遣した。いわゆる
蛮子軍華北の住民が漢人、江南の住

民を南人または
蛮子マンジと呼んだ。)であるが、元は蛮子軍のために高麗

婦女140名の供出を要求した。高麗
元宗は「結婚都監」を設けて、市井の独

身女性、逆賊の妻、僧人の女を集めて供出した。その時は処女、童女ではなく、

独身婦女や罪人の妻を強制連行して、一人絹12匹(布地24反、1匹は2反)

で、モンゴル政府に売ったのである。これは政府と言う国家権力による人身売買

と強制連行である。日帝の朝鮮女性の強制連行などの捏造は、朝鮮史の中に

このような史実があったから、捏造できたことなのである。

          

その翌年の1275年元宗の子・忠烈王の元年に、元は蛮子軍・1400人を派

遣し駐屯した。高麗政府は蛮子軍に営妓を売るために「
寡婦処女推考別監」を

設け、役人を各道に派遣し婦女を推考、選別したのである。『明実録』(1409年

2月、永楽七年)に記録されている例では、明の永楽帝時代に内使(内々の点

検のために中央から地方へ派遣された使者のことか?)が朝鮮へ派遣され、直

接美女を選んだとされている。そのため驚いた朝鮮政府は、あわてて全国に結

婚を禁止し、13才から25才までの処女を各所からかき集めたと言う。

         

事ほど左様に「朝鮮では統一新羅の時代から李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主

国の元、明、清へと貢女を進貢してきたとの記録もある。婚姻の習慣からからい

えば、古代朝鮮の売春婚の国である。中華帝国をはじめとする北方諸王朝へ

の貢女の献上は、古代からすでに有名だったのだ。」とには記されていること

は先にも述べた。

       

「西洋の伝道師シャルル・ダレが書いた『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)には、李

朝朝鮮は毎年、宮廷慰安婦として「美女3000人」を供出していたと書いてある。

しかし(韓国の)朝鮮史の専門家までが、朝鮮の妓生はただの踊り子や楽師、ま

たはせいぜい日本の芸者のようなものであり、娼妓や売春婦ではないなどと

言っている。しかし、史実をいくら「美化」しようとしてもウソはウソだ。これは明ら

かに歴史の捏造である。」

(続く)