日韓併合100年(16)

その後日本は花房公使を全権委員として、軍艦5隻、歩兵1個大隊と海軍陸戦

隊を派遣する。これに対し宗主国としての清国軍戦艦とアメリカ軍艦が派遣され

日本側を牽制する。結局は、日本は公使館の警護のために日本軍を駐留させ

ることになる。このことは、清の朝鮮に対する宗主権の牽制を意味することとも

なった。この事変を壬午軍乱(じんごぐんらん)と呼び、1882年(明治15年)

月30日に結ばれた条約を済物浦条約と言う。このとき決まった賠償金は5年で

支払う50万円と決まったが、財政困窮のため結局は10万円しか支払われな

かった。日本は最後まで賠償金は厳しく取り立てるべきであった。ちなみに壬午

軍乱で死亡した17名の日本人は(語学留学生も含め)全員が靖国神社に祭

られている。このように靖国神社には、日本近代化の課程で犠牲になられた多

くの御霊が、祭られているのである。

     
この交渉中宗主国と自認している清国はさまざまな内政干渉を行い、朝鮮開化

派は清国に一層反発し日本に接近させる結果となった。
清は1882年10月に

中国朝鮮商民水陸貿易章程」を結び、朝鮮を属国扱いしている。いわゆる不

平等条約であった。
そのため親清国派守旧派・事大党)と親日本の独立党

(開化派)との権力争いが激化する。そして漢城に日清両国の軍隊が駐留する

こととなり、2年後に駐留清国軍と武力衝突することとなる。(甲申事変こうしん

じへん)


朝鮮では閔妃一族が親清政策(事大政策)に転じたため、開化派は危機をつ

のらせる。開化派の金玉均らは日本の政財界の代表者たちに接触し近代化の

構想をはぐくみ、福沢諭吉らは熱心に支援する事となる。開化派は国王を頂点

とする立憲君主制の樹立を企て国王高宗を取り込み、クーデターを計画する。

1884年(明治17年)12月に郵征局の開庁祝賀パーティーの際に放火し、その

混乱に乗じて守旧派の高官を倒し、高宗はそれを名目に日本に保護を頼み、

日本軍は朝鮮国王を保護し開化派が国王をトップとする立憲君主制国家を樹立

すると言うもの。しかも1884年から1885年にかけて清国はベトナムをめぐっ

てフランスと清仏戦争を戦っていたので、朝鮮の駐留清軍は半減している。そし

1884年(明治17年)12月に計画は実行され、そのクーデターは成功

る。そしてその日のうちに金玉均を首相とする内閣は国王の稟議を経て成立

し、清国への朝貢を廃止するなど決めたが、即座に袁世凱率いる清軍が王宮

を警護する日本軍を攻め、日本軍とクーデター派は敗退してしまう。漢城市街で

は清国軍人によって多数の在留日本人殺され、略奪されている。そして金

玉均らは日本へ亡命するが、残った開化派人士やクーデター派の三親等まで

の親族が残忍な方法で処刑されている。その後日本と清国の間に1885年

(明治18年)
4月18日に「天津条約」が結ばれる。これが甲申事変である。


条約の内容は、

(1)日清両国は4ヵ月以内に撤兵を完了する。

(2)日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は日清両国以外から軍人を

招致する。

(3)朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする。派兵後は速やかに撤退し駐

留しない。

(4)日本人殺傷事件を調査し、事実であれば処罰を行う。


などが決められたが、相互通知(「行文知照」)の「照」の字は「中国の天子の了

解を得る手続き」と理解され、中国側では日清両国共に中国の天子に「照会」を

とると、曲解して解された。


だから、外交交渉は十二分に注意して揚げ足を取られることのないように、語学

力はもちろんのこと、特に中国の場合は相手の意図せんとすることを広く考慮し

て、歯止めをかけておくことが必要なのである。「革新的利益」なんぞに誑(たぶ

ら)かされて尖閣諸島を取られることのないように、十二分に準備することが必

要なのである。それには尖閣諸島への自衛隊の駐留が是非とも必要なことなの

である。果たして菅・仙石の民主党政権にその力量はあるのか。それにしても

日本軍は駐留清国軍に対抗出来得るだけの戦力を準備しておかなければな

らなかったのだ。

(続く)