日韓併合100年(19)

当時は軍事力が直接的に物を言う時代、現代もそのことは通用しているが、で

は、軍事力が不足すると、非が相手国にあっても外交問題では負けてしまうの

であった。そのため日本は散々苛められてきたのである。その点日本の軍拡8

カ年計画は、今の中国のアジア一極支配を目論んでの軍拡とは、根本的に異な

るものである。


中国は現代にその定遠鎮遠を蘇らせ日本を威嚇し属国化しようとしている。中

国は1986年に海軍発展戦略を発表し、航空母艦の保有を宣言しいてる。その

前年の1985年にはオーストラリアから空母メルボルンを購入し研究を開始し、

1990年にはソ連からワリヤーグ他3隻の空母を購入している。そして2016年

には新造の2隻の中型空母とワリヤーグで3隻体制のとると宣言している。この

空母機動部隊こそ現代の「定遠鎮遠なのである。2010年9月7日に発

生した中国漁船衝突事件はその尖兵である。どうする、菅・仙石よ。中国は必ず

や第2の尖閣諸島事件を起こし、尖閣諸島に居座ろうとするであろう。どうする

か、民主党政権よ。


この件は、2009.9.4の当ブログ「尖閣諸島問題(122)」以降を参照願い

たい。


ちなみに1891年(明治24)には、定遠鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊

の6隻が、更に一応親善目的で日本を訪問している。6月30日に神戸、7月に

は横浜港に入港している。横浜港には清国軍艦6隻のほか、日本の軍艦も6隻

が停泊
していた。その6隻を次に列挙する。


定遠(7,430t)、鎮遠(7,430t)、経遠(2,850t)、来遠(2,850t)、

致遠(2,300t)、靖遠(2,300t)、

  
これに対して日本側は、

扶桑(3,718t)、高千穂(3,650t)、浪速(3,650t)、高雄(1,760t)、

葛城(1,476t)、大和(1,476t)、

  
これを見れば、清国の軍艦6隻が同数の日本軍艦に比べて優越しているのは

一目瞭然であり、日本人がこれを見て驚愕したであろうことは想像に難くない。


この軍艦の列挙は、「
鎮遠定遠下駄に履き4」から転載している。下記URLを

参照願う。

http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Nagasaki_riot/nagasaki_riot4.htm


しかし明治の為政者はこの困難を直視して、完全ではなかったにしても確実に

対処していった。


しかし甲申事変の天津条約(1885年)では「朝鮮に出兵する場合は相互通知

を必要とする」となっていたが、朝鮮では袁世凱率いる清国軍が朝鮮王朝を抑

えることにより親清政権が誕生し、政治的にも軍事的にも清が主導権をとること

となり、清の朝鮮に対する宗主権が温存されることとなった。そのため1893年

(明治26年)
の朝鮮国内での「防穀令事件」では、日本の伊藤首相と李鴻章

北洋通商大臣との間で話が進み、朝鮮が賠償金を払うことで決着していると、

Wikipediaに記されている。


防穀令事件
とは次のものである。

1890年頃には、朝鮮からの輸出先はほとんどが日本で全体の9割を占めて

いた。その中身は米穀がその30%以上であった。そして1889年(明治22)、

朝鮮での凶作を理由に穀物の輸出を禁止した。そのため日本商人は大打撃を

受け、朝鮮との外交問題となった。日本は防穀令の施行は通商章程に違反する

として抗議、賠償請求した。

(続く)