日韓併合100年(20)

この例でも分かるように農村も荒れていた。壬午軍乱の翌年の1883年頃から

農民の反乱が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日全羅道

での民衆の反乱に対して、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして

学の弾圧
を始めた。東学とは東の学で、儒教、仏教、道教などを合体した民族

的宗教
である。西学とは西の学でキリスト教を言う。東学は「お札をもらい呪文

を唱える」だけの単純なものであったので、農民に支持が広がり瞬く間に各地に

広がった。3月29日には東学党全羅道で蜂起国政の改革を唱えたため、

支持する農民を巻き込み全国的な内乱へと発展していった。政府軍はこの反乱

を鎮圧することが出来ずに、閔氏政権は、清国に援軍を要請する。これを甲午

農民戦争(東学党の乱)
と言う。清国公使は日本外務大臣陸奥宗光に対して

朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する」旨6月6日に通告する。陸

奥宗光は「朝鮮は清国の属邦とは認めず」と抗議し、駐清代理公使の小村寿

太郎は清国政府に「
公使館保護のため日本軍も出兵する」ことを翌6月7日

伝える(天津条約に準じて通告)。朝鮮政府は日清の武力介入を避けるために

東学党の国政改革案を受け入れて反乱を収め、1894年(明治27)6月10

全州和約を結んでいた。朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの両軍とも

受け入れず、6月15日、日本は「朝鮮の内政改革を日清共同で進める」旨の

提案を行うも、清国はそれを拒否する。その後イギリスが調停に乗り出し、ロシ

アは日本軍の撤退を要求する。7月9日清国はイギリスの調停案を拒否する。

日本は駐露公使よりロシアの干渉はこれ以上ないとの情報により、7月11日

清の調停拒否を非難し清との国交断絶を伝える。これに激怒した光緒帝も7月

14日開戦
を決定する。回答に3日の猶予をもらった朝鮮は「内政改革(宗属関

係の撤廃)は自主的に行うので、日清両軍の撤兵」を再度伝えてくる。19日

は日本から5日の猶予をもって朝鮮改革案の提起をせよと清国に迫っている。

現地では、7月25日には豊島沖の海戦が戦われており、8月1日に日清両国

宣戦布告する。したがって日本側は朝鮮、清の回答待ちの状態であったた

め、陸奥宗光は「外交にありては被動者(受身)たるの地位を取り、軍事にあり

ては常に機先を制せむ」と回顧している。

   

豊島沖開戦ほうとうおきかいせん)は次のような経過で戦われた。

以下はWikipedia東郷艦長の決断

http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/34327394.html

を参照してまとめている。

(続く)