(1)清国駐在の領事・武官から清軍の増派を知らされた日本軍大本営は、189
4年7月19日に同日編成された連合艦隊に、1.朝鮮半島西岸の制海権と仮根
拠地の確保、2.兵員増派を発見次第輸送船団と護衛艦隊の破砕を指示した。
(2)1894年7月25日早朝、日本海軍第一遊撃隊巡洋艦吉野(4216t,15cm4
門)、秋津島(3150t,15*4)、浪速(3709t,26*2)は、朝鮮北西岸豊島沖で清国
巡洋艦済遠(2440t,21*1)、広乙(1000t,12*3)の2隻と遭遇する。
(3)3000mに接近した時、済遠が21cm砲を発砲し戦闘が始まる。その後霧が濃
くなり清国艦隊は逃走を始める。
(4)広乙は追い詰められ擱座し乗員を下船させた後爆破。済遠は国旗を降ろし
降伏の意を示したかと思うと逃走を図る。
(5)この追跡戦の最中に、吉野と浪速は、清国軍艦操江と英国商船旗の高陞
号(こうしょうごう)に遭遇する。
(6)高陞号は清国軍にチャーターされたイギリスのジョージ・マディソン商会の商
船であったため、浪速の艦長「東郷平八郎」大佐は、高陞号に信号を送り停船さ
せて臨検を実施する。
(7)短艇で高陞号に乗り込んだ士官は、清国兵1,100名、火砲14門、弾薬
多数が満載されていることを確認する。
(8)東郷大佐は高陞号を拿捕すべく”本艦に続航せよ”と信号を送るも、従わ
ず”清国兵が騒いで続航できず”と信号を送ってくる。
(9)東郷艦長は清国軍が拿捕に応じないと判断し、”直ちに船を見捨てよ”と信
号を送る。
(10)再度高陞号に士官を送り、清国兵がイギリス人船長らを脅迫していることを
確認する。その後も清国兵たちはイギリス船長らを脅迫し続けて、日本側の指
示に従わず、短艇派遣信号を繰り返す。
(11)そのため東郷は高陞号の撃沈を決意し、”短艇送り難し、直ちに船を見捨
てよ”と最後の信号を送る。そして「危険」を意味する信号旗”B旗”を掲揚する。
(12)そして、浪速は砲撃と魚雷攻撃で高陞号を撃沈する。清国兵1,000名以
上が死亡し、イギリス人船長以下3名を救助する。
(注)Wikipediaの「日清戦争」では清国兵を50名救助していると記されている
が、他の史料にはその記述はないので、これは間違いであろう。『7月25日、
今日はなんの日?高陞号事件起きる。日清戦争』
http://news.livedoor.com/article/detail/3243936/にもその旨記載されている。
(13)高陞号を撃沈されたイギリスの対日世論は沸騰し、東郷艦長の処罰と
日本政府への損害賠償を要求したきた。
(14)しかし当時イギリスを代表する国際法学者のジョン・ウェストレーキとトーマ
ス・アースキン・ホーランドの両氏がタイムス紙へ「東郷艦長の取った決断と行
動は戦時国際法のいかなる条文に照らしても全く正当である。」と投稿する
と、批難は一気に沈静化する。
(15)ロンドンタイムス紙の論文を次に示す。これは『「明治」という国家』からの
引用である。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/07/post_524.html
(続く)