日韓併合100年(24)

日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。

と言うのも清国の北洋艦隊は持久戦を狙い戦力の温存をはかって、なかなか

威海衛から黄海へ出てこなかったからだ。


威海衛は山東半島の先端に位置し、渤海海峡に面しており、丁汝昌率いる北

洋艦隊の母港である。1898年にはイギリスの租借地と成るが、イギリスの東洋

艦隊の基地としての不適切(湾口が広すぎる、後背地がない)なために重要視

されなかった。


しかし平壌の戦いの翌日1894年9月16日の夜中1時頃、陸兵4000人の輸

送船団を護衛して、北洋艦隊が朝鮮平壌に向かった。9月17日任務を終え鴨

緑江河口付近にいた北洋艦隊と、索敵中の連合艦隊は夫々の煙でお互いを発

見する。北洋艦隊は横列陣をとり、連合艦隊は単縦陣で激突する。北洋艦隊

は船首に設けた衝角(しょうかく、船首を敵の船腹にぶつけて突き刺すもの)を、

日本艦の横腹にぶつける戦法を取った。しかし日本連合艦隊は速力に勝り、し

かもより速い巡洋艦4隻、「吉野」、「浪速」、「高千穂」、「秋津島」の第一遊撃

隊(坪井航三司令長官)が先行し、伊藤すけゆき連合艦隊司令長官の本体6

隻(「松島」「厳島」「橋立」「扶桑」「千代田」「比叡」)が続き、速力が勝ったため

接近戦とはならず、完全な艦隊同士の砲撃戦となった。このほかに赤城(623t)

西京丸(木造船4100t)が通報艦として参加した。連合艦隊では三景艦

4278tが最大の艦であった。


これに対して清国北洋艦隊は、戦艦2隻定遠」「鎮遠」(7335t)、「来遠」

経遠」(2900t)、「靖遠」「致遠」「済遠」(2300t)、「平遠」(2100t)、「超勇

揚威」「広甲」「広丙」(1350t~1000t)のお互い12隻の軍艦が接近していっ

た。そして距離5,800mで定遠の30cm砲が火を噴いた。ここに「黄海開戦

の火蓋が斬って落とされた。


日本艦隊は遊撃隊と本隊とに分かれ、高速を利用して北洋艦隊を挟み込む戦

法を取り、北洋艦隊を追い詰めていった。そして戦闘開始30分で「超勇」「揚威」

が沈没し、「済遠」が旅順に遁走してしまった。そして「致遠」も沈没する。日本本

隊の旗艦「松島」も戦艦「定遠」「鎮遠」2隻に集中砲火を浴び、速射砲の大半が

破壊された。そのうちに「経遠」が炎上、沈没そして「広丙」も沈没し、「定遠

鎮遠」も多数の被弾を受けその戦闘能力を奪われていた。そして日没にまぎれ

て北洋艦隊は旅順港に逃げ込み黄海海戦は終了する。日本連合艦隊は、旗艦

巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、仮想巡洋艦「西京丸」砲艦「赤城」の4隻が大破

している。


黄海開戦
鴨緑江海戦とも言う)はかろうじて日本軍の勝利に終わるも、日本

連合艦隊の旗艦「松島」が大破したため追撃戦を断念している。「松島」の3等

水兵の三浦虎次郎が「鎮遠」の砲撃に重症を負うも、「いまだ沈まずや定遠は」

と戦況を心配したという。これは軍歌『勇敢なる水兵』に一節である。そして

明治天皇御自ら『黄河の大捷』という詞を残している。

(続く)