日韓併合100年(32)

海城蓋平と遼陽のほぼ中間地点に位置し、交通の要衝であり清国にとっても

重要拠点であった。


蓋平は営口から50km~60kmほど渤海遼東湾沿いに南下した河口に位置

する。海城の攻略は12月1日に第1軍の第3師団に命令が下され、酷寒の凍結

した大地に悪戦苦痛するが1894年12月13日海城を占領することが出

来た。しかし蓋平
現在の蓋州)には2万の清国兵が健在であったため、海城は

背後から攻撃される恐れがあった。そのため乃木中将率いる乃木混成旅団に

蓋平を攻めさせ、年が明けた1895年1月10日激戦の末、これを占領し蓋平

城に入城することができた。清軍の死者450人、馬匹、小銃、大砲など大量に

放棄されていた。日本軍の死者36人、負傷者298人であった。


1894年10月24日
第1軍鴨緑江を渡河し、九連城(丹東市の一部)を

攻略し始めて清国領を占領して以来、11月21日苦難の上第2軍旅順要塞

を陥落させ、そして第1軍が12月13日海城を平定し、年が明けた1895年

1月10日
には蓋平を平定し、遼東半島の主要拠点を手中に収めることに成功

したのである。残るは、威海衛に立て篭もる北洋艦隊となる。しかし清国は要衝

の海城を取り戻そうとしていた。


1月17日、1月22日、2月16日、2月21日、2月27日と5回にわたり、それぞ

れ1万から2万に及ぶ兵力で清国は海城に攻め込んできたが、そのいずれもが

かなりの被害を受け日本軍に撃退された。


さて次は威海衛の攻略である。威海衛には北洋艦隊の残存艦艇が存在し、清

国の重要な海軍基地である。そのため、第2軍司令官大山巌大将は、連合艦

隊司令部と調整後、12月20日艦砲射撃の援護の下、山東半島の先端に

する。そして1月30日、日本軍は戦死54人、負傷152人を出しながらも、威

海衛の南岸要塞を占領する。翌日1月31日には北岸要塞も無血占領を果た

し、2月2日までにはその他の拠点も制圧し威海衛湾の山東半島の軍事拠点

は全て日本側の手に落ち、北洋艦隊を包囲することが出来た。しかし北洋艦隊

の残存艦艇はまだ健在で、「定遠」は30cm砲で攻撃を続けていた。そのため

陸上からの砲撃では埒(らち)があかず、海軍の応援を得て、1895年2月5日

日本海軍は威海衛湾への水雷艇攻撃を敢行し、「定遠」を大破させ、「来遠」

「威遠」を撃沈、2月9日には「靖遠」を沈めた。この間日本軍は連合艦隊の艦

砲射撃と、占領した砲台からも砲撃を加えた。そのため清の陸兵やお雇い外国

人は丁汝昌提督に降伏を求めた。降伏を拒否していた丁汝昌も日本軍の攻撃

に対して如何ともし難く、服毒自殺をし定遠艦長、陸兵指揮官も相次いで自決し

降伏した。2月15日に降伏調印が行われ、2月17日に、清国陸兵全てが日本

軍の前哨線外に解放され、鹵獲艦船から商船「康済号」をはずし、伊東祐亨

(すけゆき)連合艦隊司令長官
は、最大の礼遇を持って丁汝昌の亡骸を、そし

て清国海軍将兵1,000余名とお雇い外国人を清国へ送り返した。このエピソー

ドは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在もフェアプレイ精神の例として

日露戦争上村彦之丞提督と共に各国海軍の教本に掲載されていると言う。

丁汝昌の遺骸がジャンク船で運ばれることを聞いた伊東が、商船を開放しそれ

で運ばせたものであった。連合艦隊の各艦の半旗の中、合砲に送られて丁汝昌

の亡骸は威海衛を去っていったのである。また清の将兵を助命したことは当時と

しては類を見ない厚遇であった。


威海衛の戦い」により、海上からの輸送の安全が確保されたことにより、この

酷寒の大地での陸上輸送に頼らなくても良い状況となったが、酷寒での戦いは

ある意味凄惨を極めた。当時の陸軍はしっかりとした冬季装備と厳寒地での正

しい防寒方法を持っていなかった上に、装備も貧弱で軍夫には軍靴は支給され

ていなかった。兵士もぞうりを履くことが多く凍傷が多発したと言う。その艱難辛

苦はいかばかりか。


(続く)