さしもの北洋艦隊はこの「威海衛の戦い」で、全滅した。定遠は沈没し、鎮遠は
鹵獲され連合艦隊の二等戦艦として、日露戦争の黄海海戦(ロシア旅順艦隊を
撃破)や旅順攻略戦やはたまた日本海海戦にも参加した。この辺の事情は、
11/22のNO.26を参照願う。そして明治44年(1911年)に除籍、標的艦と
して破壊された。
さて、日露戦争では第2艦隊司令長官だった上村彦之丞海軍中将(後に大将)
は、傾きながらも砲撃を続けていた巡洋艦リューリックの姿を見て、「敵ながら天
晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令し、627名を救
助した、・・・・・とWikipediaに記載されている。しかし彼の真価は、日本海海戦
において、バルチック艦隊の急旋回行動を偽装転進と見破った第2艦隊参謀佐
藤鉄太郎中佐の的確な意見具申を受け、東郷司令長官の指令に対し独断専
行単独で艦隊を追撃し至近距離から攻撃したことが、日本海海戦の勝利を確定
させたことである。このいきさつを佐藤の講演で知ったアメリカの一提督が「ブラ
ボー!アドミラル上村」と叫んだと言う。これもWikipediaに記載されている。
上図は『日清戦争』http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html
の『営口の風俗』http://ww1.m78.com/sib/eikou.htmlより、引用している。
海城攻防戦の後、首都(直隷、中華皇帝のお膝元、北京)決戦のために遼陽や
営口付近の清軍を掃討する必要があり、さりとて直隷決戦のために兵力の損耗
を避けたいとの思いの交錯する中で、大本営と前線司令部(第1軍)の間では意
見が交わされていた。第1軍では掃討作戦を必要と考え、大本営は直隷作戦の
妨げとなると考えそれを拒否していたが、結局は掃討作戦の規模を縮小して実
施されることとなる。即ち、海城から3月2日に鞍山(11/29の地図参照)、3月4
日に牛荘、3月9日に田荘台を攻略する。遼河対岸の田荘台には清軍2万人、
砲40門の大軍であったため日本軍も三個師団(大雑把に言って一個師団は
10,000~13,000名と思われる。)が参加する大戦となったが、大規模な砲撃戦
の末攻略に成功する。そして敵拠点を破壊し、全軍を撤退させ営口、牛荘、
海城、鞍山、鳳凰城、九連城を日本軍の守備ラインとして、次の直隷決戦に備
えることとした。そして第2軍に新作戦の命令が下された。
ちなみに、陸軍の組織単位は、班、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、
師団、軍団、軍と言った組織形態をとる、と言う。
山海関の東方の「洋河口」への上陸作戦である。山海関は今の秦皇島市の近
くにある。万里の長城の東端にある要塞であった。満州はこの関(せき)の東に
位置したため関東と呼ばれ、関東軍の名はこれに由来している。
(続く)