日韓併合100年(33)

さしもの北洋艦隊はこの「威海衛の戦い」で、全滅した。定遠は沈没し、鎮遠

鹵獲
され連合艦隊の二等戦艦として、日露戦争黄海海戦(ロシア旅順艦隊を

撃破)や旅順攻略戦やはたまた日本海海戦にも参加した。この辺の事情は、

11/22のNO.26を参照願う。そして明治44年(1911年)に除籍、標的艦

して破壊された。


さて、日露戦争では第2艦隊司令長官だった上村彦之丞海軍中将(後に大将)

は、傾きながらも砲撃を続けていた巡洋艦リューリックの姿を見て、「敵ながら天

晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令し、627名を救

助した、・・・・・とWikipediaに記載されている。しかし彼の真価は、日本海海戦

において、バルチック艦隊の急旋回行動を偽装転進と見破った第2艦隊参謀

藤鉄太郎中佐
の的確な意見具申を受け、東郷司令長官の指令に対し独断専

行単独
で艦隊を追撃し至近距離から攻撃したことが、日本海海戦の勝利を確定

させたことである。このいきさつを佐藤の講演で知ったアメリカの一提督が「ブラ

ボー!アドミラル上村」と叫んだと言う。これもWikipediaに記載されている。

Nishin20map_2

上図は『日清戦争http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html

の『営口の風俗』
http://ww1.m78.com/sib/eikou.htmlより、引用している。


海城攻防戦の後、首都(直隷、中華皇帝のお膝元、北京)
決戦のために遼陽や

営口付近の清軍を掃討する必要があり、さりとて直隷決戦のために兵力の損耗

を避けたいとの思いの交錯する中で、大本営と前線司令部(第1軍)の間では意

見が交わされていた。第1軍では掃討作戦を必要と考え、大本営は直隷作戦の

妨げとなると考えそれを拒否していたが、結局は掃討作戦の規模を縮小して実

施されることとなる。即ち、海城から3月2日鞍山(11/29の地図参照)、3月4

牛荘3月9日田荘台を攻略する。遼河対岸の田荘台には清軍2万人、

砲40門の大軍であったため日本軍も三個師団(大雑把に言って一個師団は

10,000~13,000名と思われる。)が参加する大戦となったが、大規模な砲撃戦

の末攻略に成功する。そして敵拠点を破壊し、全軍を撤退させ営口、牛荘、

海城、鞍山、鳳凰城、九連城を日本軍の守備ラインとして、次の直隷決戦に備

えることとした。そして第2軍に新作戦の命令が下された。


ちなみに、陸軍の組織単位は、班、分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団、

師団、軍団、軍と言った組織形態をとる、と言う。


山海関
の東方の「洋河口」への上陸作戦である。山海関は今の秦皇島市の近

くにある。万里の長城の東端にある要塞であった。満州はこの関(せき)の東に

位置したため関東と呼ばれ、関東軍の名はこれに由来している。

(続く)