正式にはこの条約が1895年(明治28年)5月8日に批准されて始めてその
日から、戦闘が中止されるというものであった。下関条約が調印された4月17
日はまだ(正式には)戦闘は終了していない状態なのである。そしてその批准も
終わらない調印後一週間もしない4月23日に露独仏による三国干渉が成され
たのである。
この三国干渉はロシアが主導した。ロシア帝国大蔵大臣のウィッテが、その張
本人であった。
ウィッテは、ロシアの極東進出のために不凍港が必要であり、日本に遼東半島
を取られることは海の出口を失うことに繋がると考えた。ロシアはシベリア鉄道
を延長しており、南下政策を取り満州の権益を拡大しようと帝国政策に邁進して
いた。そのためにも日本の極東進出を抑える必要があった。そのため中国の分
割に関心を持つイギリス、フランス、ドイツの三カ国に提案し、仏・独の賛成を
得て露・仏・独による三国による勧告となった。
フランスはもともと1892年に露仏同盟を結んでおり、更にはドイツも巻き込ん
でおけば自国にとっても安全だと考えて、賛同した。
ドイツはもともと日本の講和条件に異議はないと回答していたが、列強との共
同提案をしておけば、極東にドイツの拠点が得られるかもしれないとの助平根
性でこの提案に賛同した。また、露仏同盟はドイツにとっては脅威であり、ロシ
アの目が極東へ向くことはドイツの国益にかなうものであった。ドイツは日本に
好意的ではあったが、その裏ではひそかに戦時禁制品を清国に提供し、退役将
校も派遣し清国への進出を狙っていた。このことを日本の外務省は把握してい
なかった。独仏は明治の開花期には日本の教師役を果たしていたので、この勧
告にはさぞかしショックだったことであろう。ある意味インテリジェンス(情報活
動)が重要なことを示す良い例であろう。
話は飛ぶが、日中戦争のきっかけの一つとなった第2次上海事変
(1937_S12,8,13)は、蒋介石に加担するドイツ軍事顧問団が企画して起こさ
れたものであった。
イギリスは、ロシアの南下を非常に嫌っていた。そのため日本をしてそのロシア
の防護壁にしようと考えていたので、1891年から領事裁判権の返還の交渉を
始めて、日清戦争の開始直前の1894年7月16日日英通商航海条約を調
印している。これで以てイギリスは日本が清国を攻めることを容認したと理解さ
れた。(関税自主権の返還はまだだが、これが不平等条約の解消のきっかけと
なった。)ちなみに実質的な宣戦布告の日は7月24日である(11/26,NO.23など
を参照のこと)。従って、イギリスはこの勧告に賛同しなかった。アメリカもまた
日本に好意的であったので、局外中立の立場を崩さなかった。
(当ブログ11/8,NO.17参照のこと。)
1895年(M28)4月17日に日清講和条約は調印されたが、その5日後の
4月23日、ロシア・フランス・ドイツの三国公使が突然外務省を訪れた。そして
林薫(ただす)外務次官に対して、日本の遼東半島の割地に反対することを口
頭で伝えた。ロシア公使の口上書の概略を次に示す。
『ロシア皇帝陛下とロシア政府は、日本国の清国に対する講和条件を査閲(さえ
つ、実地に調べる)するに、遼東半島を日本が領有することは、常に清国首府を
危うくする恐れがあるのみならず、朝鮮国の独立も有名無実とするものとなり、
極めて極東の永久平和の障害を与えることになる。因って露国政府は日本国皇
帝陛下と日本政府に対して、誠実な友情のために重ねて、遼東半島の確然(か
くぜん、しっかりとした)領有を放棄すべき事を勧告する。』と言うものであった。
ドイツは書面でそれを伝えた。その中には、「・・・。三国との戦争は、日本国に
望みがないことはあきらかで、この口上に従って譲歩することは可能であると信
ずる。・・・」と言う露骨に戦争をほのめかすものであった。19世紀ヨーロッパ外
交においても見当たらないほど露骨な脅しであった。
これは『三国干渉』http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.htmlを参照している。
(続く)