そのため第一次大戦では日本は即座にドイツに宣戦を布告して、陸軍が青島
(チンタオ)と膠州湾のドイツ租借地に攻め込んでいる。海軍は、ドイツ植民地の
南洋諸島を攻略し占領している。
ちなみに第一次大戦は、独墺(オーストリアハンガリー)連合と仏露英の植民地争奪闘
争が原因で起こったものである。日本は傍若無人なドイツの進出を抑えるため
に、また日英同盟を結んでいたのでドイツに宣戦布告したものである。
さて4月23日、三国干渉を受けた日本は驚愕した。そして翌日4月24日、
広島の大本営で御前会議を開く。伊藤博文首相は採るべき案として3案を示した。
1.三国の勧告を断固拒絶する。
2.列国会議を開催して遼東半島問題を協議する。
3.勧告を容れ清国に恩恵的に還付する。
討議を尽くした結果は次の通りであった。
1.三国特にロシアとの戦争は戦力上到底勝ち目がなかった。
2.列国会議では、必ずや新たな干渉を受けることになる。
3.従って、三国の勧告を受け入れて、遼東半島を還付せざるを得ない。
そして5月5日に三国に対し遼東半島の放棄を伝え、
1985年(M28)5月10日、遼東半島還付の詔勅が下され、日本全国民が
万石(ばんこく、極めて量が多いこと)の涙を呑んで三国の武力干渉に屈せざる
を得なかったのであった。
これは、
『近代日本戦争史概略』の「三国干渉」
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin3.html
を参照している。
やがて、ロシア打つべしとの声が期せずして沸き起こり、「臥薪嘗胆」は全国民
の合言葉となって富国強兵に努めることとなった。
このときから日露戦争までの10年間は近代日本史上最も民族的意識の発揚し
た時期となり、「臥薪嘗胆」は日露戦争を辛うじて勝利を収める原動力となっ
た。・・・と結んでいる。
結局遼東半島は、1895年11月8日、清との「遼東半島還付条約」を結び還
付され、その代償の還付報奨金として三千万両を得ることとなった。遼東半島
は下関条約で日本に譲渡されたていたために、再度還付手続きが必要なので
ある。
(続く)