日韓併合100年(39)

さてドイツは、1897年11月1日山東省西部の巨野県でドイツ人宣教師

2人殺された。これを口実に「ドイツ人保護」名目で膠州湾を占領した。そして

居座り膠州湾全体を99年間租借することで和解した。そしてドイツは膠州湾を

開発し、小さな港町を一大商業港・青島へと発展させた。


これを契機に列強は中国から租借地を獲得することになる。1898年ロシア

(旅順、大連)、1898年イギリス(威海衛と九龍半島や長江からビルマへの

鉄道施設権)、1899年
フランス(広州湾)へと繋がってしまい、全てが99年の

租借地となった。特にロシア万里の長城以北と満州に勢力圏を拡大し極東

への野心
をむき出してきた。そのため早晩日本とぶつかる運命にあったので

ある。


日本も防衛上最低限の要求として、台湾のすぐ隣の福建省を他国に租借・割譲

することがないように約束を取り付けている。

  
1895年5月8日日清講和条約が批准され、5月29日に台湾北部に近衛

第一旅団が上陸を開始した。しかし現地の義勇兵のゲリラ戦や友好的と見せて

背後から襲うなどの戦いに手こずったため、何度かの増派が行われ、最終的に

は2個師団以上の戦力、将兵5万人、軍夫2万6千人を投入して1895年11月

18日
にようやく台湾全島を平定することが出来た。戦死164名、病死者

4642名、軍夫主に病死者(マラリア赤痢など)7000名推定、台湾側1万4千

名の死者をだした。これを乙未戦争
いつびせんそう)と言う。

  
しかし三国干渉による遼東半島の返還の結果、朝鮮での日本軍事的・

政治的権威が失墜
し、閔妃など親露派が台頭してきた。そして1895年7月

6日
閔妃ロシア軍の助けを借りてクーデターを起こし、政権を奪回する。

そのため大院君や開化派勢力に警戒されて反感を買い、高宗の父・大院君な

どの策謀により1895年10月8日閔妃は暗殺された。これが乙未事変

ある。


この事件では朝鮮人3人が捕まり絞首刑となっているが、時の趨勢として日本

公使も暗殺事件に関与したのではないかと疑われ、日本に召還され裁判にかれ

られたが、証拠不十分で釈放されている。


乙未事変後親露派が一掃され大院君を中心に国内改革を進めたが、朝鮮政情

は安定しなかった。親露派の勢力はロシアの指示で、日本の電信線を切断する

などの暴動を起こしていた。そして1896年2月10日、「日本兵が攻め込む」と

の偽情報を高宗に流し、翌2月11日、ロシア水兵を京城に引き入れ、高宗を

ロシア公使館に連れ去ってしまう。そして高宗は1896年2月11日から

1897年2月20日
までの間、ロシア公使館で朝鮮王朝の執政を行うこととなっ

た。これを露館播遷
ろかんはせん)と言う。ある意味清国の呪縛からは逃れた

ことになる。

そして高宗は、1897年(明治30年)に清の冊封体制から離脱した証として

国号を大韓と改め、元号も光武改元し、清の冊封の象徴であった迎恩門や

大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念することが出来た。


このようにして日清戦争の結果、朝鮮は清国の冊封体制から開放され、

1897年10月12日、高宗は、皇帝即位式を挙行し、「大韓」帝国の成立

宣言することが出来たのである。


(続く)