清国は日清戦争前から日本を征伐するために軍事的偵察を行っていたので
ある。1844年には、清国駐日大使館随員のヨウ文棟(ブントウ、ヨウは女へん
に兆)は兵略書『日本地理兵要』を発表している。更には、江蘇按察使の応宝
寺も、江蘇巡撫の張樹声に、日本征伐に挙兵すべき事を進言している。巡撫と
は省の長官でその下に按察使(司法、治安、監察)が配置されていた。
1844年と言えば、江戸時代の天保15年で明治維新(1868年)の24年も前
のことである。中国は早くもこんな時から日本征服を考えていたのである。
遅浩田の「日本殲滅」を主張した講演『戦争が正に我々に向かってやって来
る』(2005/4,中央軍事委員会拡大会議)よりも161年も前のことである。
(当ブログの2009/5/13、尖閣諸島問題NO.36を参照のこと)
なぜ清国が日本を「征伐」しなければならないのかは、彼らの目には、日本の
明治維新が中華帝国にとっての易姓革命として映っていたからである。
易姓革命とは、ある王朝が姓の異なる一族に滅ぼされ、その一族の王朝が新
たに打ち立てられることである。つまり、明治天皇が徳川一族から「国を奪った」
と見たわけである。
日本が維新後に始めた「西欧に学ぶ」キャンペーンは、焚書坑儒(経書を焼き
捨て、学者を土中に生き埋めにして殺す。秦の始皇帝が行った言論弾圧と反体
制派粛清の悪行)と同じ大罪として見られた。日本は清国の朝貢国とは認識さ
れていなかったが、世界の王たる清国にこそ正義があると考える「王道思想」
から、このような悪辣非道な明治政権を天に代わって征伐し、旧王の徳川に王
位を戻すべきだと考えたからである。
更には、1886年8月には清国北洋艦隊の巨大戦艦『定遠・鎮遠』を長崎に
入港させて、日本を威嚇している。このとき上陸した清国水兵は長崎市街を
傍若無人に跋扈して、多数に日本人を死傷させる『長崎事件』を引き起こして
いる。清国はこの砲艦外交を、更に5年後の1891年(明治24年)6月にも
実施している。北洋艦隊の艦隊6隻が、神戸、横浜と一応親善目的で訪問して
いる。しかしこれは明らかに日本を威嚇するための親善訪問であった。
1888年(M21年)驚愕した日本は三景艦を企画し、1892年(明治25年)に
就役させている。('10.11.9の当ブログNO.18参照)
このように中国こそ侵略者なのであり、清国は日本を懲罰しようと考えていた
のであり、朝鮮を属国として扱っていた清国は事あるごとに朝鮮にいる日本人を
虐殺していったのである。
(壬午軍乱、甲申事変など11/4,NO.15~を参照のこと)。
結局日清戦争で敗退した清国は、1895年(M28)4月17日に下関条約を
結ばざるを得なかったのである。そのため光緒24年より(1898年6月11日
から9月21日)、光緒帝の支持の下に政治改革運動が起こっている。これは
康有為、超啓超などの若手維新派達が日本の明治維新をモデルに政治制度
(しくみ)も変えて行こう(変法)とするものであり、光緒帝の絶大な支持を得た。
これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)と呼ばれた。光緒帝は戊戌維新を遂
行するため、在野に降りていた伊藤博文を招き維新についての意見を求めた。
この伊藤の訪問は保守派に危機感を与え、「伊藤が登用されると保守派の既
得権益が失われる」と不安が募った。
そのため1898年(M31)8月16日、西太后派がクーデターを起こし、康有
為派は追放され光緒帝は幽閉されてしまう。これが戊戌の政変と言われるもの
である。ここに戊戌維新は103日で挫折することになり、以後西太后による保
守的で排他的な政治が続くことになる。
光緒帝の命を受けた維新派の康有為は、『日本と清国は「同州(アジア)、同文
(文化)、同種(種族)、同俗(習俗)」なので、中華文化の発祥の地である中華で
維新が出来ないはずがない。どうかその実際をお教え願えないか』と、1898年
9月19日に日本公使館に伊藤を訪ねて意見を求めた。
(続く)