しかし伊藤は次のように答えたと言う。
『変法を望むなら、まず尊大な中華思想を放棄することが先決である。この世
に生を受けているものはみな平等であり、生まれながらの貴賎の違いはない。
同様に国にも貴賎はない。まず外国を夷テキとして見ることは止めなくてはなら
ない。』
そして伊藤の問いに康有為は次のように答えた。
『保守派の反対のために思うように進まないのが現状です。どうか、慈キ大后
様(西太后)に侯爵からお話をして聞かせてくださらんか。侯爵の一席の話で、
清国四億の民を救うことが出来るのです。まこと東方の時局、伊藤殿の肩にか
かっていると申せましょう。』
だから西太后派のクーデターが起こったのである。
清朝政府がこのような不安定な体たらくであったと言うことは、地方政府も同様
で一般民衆社会も荒れていた。そのため土地争いなどが頻発し、その争いの調
停に当時勢力を拡大していた教会(キリスト教勢力)が介入していた。そして教
会のみならずキリスト教の信者となった一般民衆にも、有利な裁定を(地方官で
も)下すようになっていた。このため一般民衆の中に、西欧及びキリスト教への
反感が強まっており、外国人に平身低頭する官僚や郷紳(地方有力者)への失
望感が拡大していた。この外国人宣教師やその信者たちと郷紳や一般民衆と
の確執・事件を仇教事件と言われている。
このように宣教師が増加しキリスト教の布教の拡大は、1857年~1860年に
起こったアロー号事件での英仏連合軍と清国との争いの結果であり、布教地
域が拡大しイギリスは九竜半島を割譲させ、調停に入ったロシアは1860年に
外満州(今の沿海州)を割譲させた(北京条約)。沿海州を得たロシアはウラジ
オストックを建設し、ロシア太平洋艦隊を常駐させた。そしてシベリア鉄道の
建設を進めた。
ついでに言及すると、1897年にドイツが膠州湾を租借すると、ロシアはその
翌年1898年3月27日、清との間で(賄賂で)「旅順大連租借条約」を結び、
旅順湾、大連湾を25年間の租借、東清鉄道(シベリア鉄道の支線)を大連ま
で施設する権利を得ている。そしてシベリア鉄道は1903年7月に全線が開
通し、対日戦争の準備が完成したのである。このようにロシアは、三国干渉で
清へ返還させた遼東半島をまんまと手に入れたのである。このように国際政治
は狡猾なのである。とても菅・仙石なんぞには取り扱えない代物である。(12/11,NO.39参照)
さて話を戻して、山東省ではドイツが力を入れてキリスト教を布教していたが、
大刀会という刀や槍の修行を行う宗教的な武術結社がありキリスト教徒と対抗
していた。1897年11月1日、山東省西部の巨野県張家荘のカトリック教会が
大刀会の数人による略奪に遭い、教会にいたドイツ人宣教師が2人殺された。
これは12/11,NO.39で言及したことであるが、これらの仇教事件は清朝の弾圧
で静まったが、仇教事件は他所でも多発し大刀会は他の拳法の流派と合体し、
反キリスト教運動の広がりと共に「義和挙」と改名し統合拡大していった。
「義和挙」の攻撃対象がキリスト教関連施設に限定されていたため、当局の取
り締まりもゆるく半ば公認される雰囲気もあり「義和団」と呼ばれ勢力を増して
いった。列強から取締りを強く要請された清朝は袁世凱を山東省に送り弾圧さ
せた。
(続く)