北京が陥落すると清朝は態度を180度転換し、8月20日には義和団を「挙匪」
または「団匪」と呼び反乱軍とした。そのため「扶清滅洋」を旗印にしていた「義
和団」は、清朝に失望し「掃清滅洋」に変えざるを得なかった。
1900年7月には義和団はロシアのブラゴヴェシチェンスク(中国語で海蘭泡)
も2週間にわたり占領する。ロシア軍コサック兵は、7月16日。居住する中国人
を追い出し約3000人以上を虐殺している。そして更に軍を南に進め東三省を
占領してしまう。この結果この時期に清国人約2万5千人がロシア兵に虐殺さ
れてアムール川に投げ捨てられ、筏のように川を下っていったと言う。東三省
とは、現在の遼寧賞、吉林省、黒龍江省の三省であるが、いわゆる満州のこと
である。満州は清を建国した後金のヌルハチの出身地なのである(10/28,NO.
10参照のこと)。しかしロシアはひそかに朝鮮への進出を狙い、その東三省に
居座り続けることになる。そのため三国干渉以来高まっていた反ロシア感情は
いやが上にも高まり、日本の警戒感を高めることになり、日露戦争への導火線
となってゆく。
事ほど左様に列強は、北京陥落後も清朝への勢力扶植を図るために、兵力を
投入している。そのため北京陥落以後の方が投入された兵力は多く、北京の
55日と言われる時期よりも、投入された兵力は倍増し七万を超えていた、
とWikipediaは述べている。
そして西太后は李鴻章に列強と和議を結ぶよう指示をするが、8カ国連合軍に
負けた手前、列強の言いなりにならざるを得ず、過酷な賠償金を課せられた
「北京議定書」を結ばざるを得なかった。
和議交渉は1900年10月より始まり、最終的には1901年9月7日に北京で調
印された。中国では「辛丑条約(しんちゅう)」とも言われている。
賠償金の額は、半端な額ではなかった。清朝の歳入が、8,800万両強であっ
たにもかかわらず、賠償金の額は、4億5千万両、利息を含めると9億8千万両
にも上った。日本の取り分はそのうち、7.7%の3,479万両だった。この4億
5千万両は当時のお金で(?)6億3300万円だと、『近代中国は日本がつくっ
た(黄文雄氏)』には記載されているが、このしわ寄せが庶民の頭上に覆いかぶ
さり「掃清滅洋」と言う清朝敵視のスローガンに変わり、義和団以外にも広がり
を見せ「辛亥革命」へと繋がる布石となるのである。賠償金の支払いは、年利
4%で39年間で支払うことになり、結局賠償金は度々緩和され更には中国へ何
らかの形で返還された。そして1938年までに6億5千万両が支払われ終了し
た。
日本軍は7万人強の兵力のうち、おおよそ1万8千人の兵力を投入している。
8カ国では地の利上一番多くに兵力を提供している。従って全兵力の25%は
日本軍だったのだが、賠償金の取り分の7.7%は少し少ないように感ずるが、
日本は対独戦(第1次世界大戦)では、1922年までの5年間の支払猶予した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
より引用。
その後1922年4月には「対支文化事業特別会計法」を施行し、賠償金をこの
会計に帰属させ、中国における教育、学芸、衛生、救じゅつ(困窮者の救済)な
どの恒久性を持つ文化事業や中国留学生への援助、日本における中国関連の
学術事業などに用いることとした。この「対支文化事業」は外務省の所管となり、
同省の対支文化事務局が執行することになった。
これは先に言及した『近代中国は日本がつくった(黄文雄氏)』からの引用であ
る。更に続ける。
(続く)