日韓併合100年(47)

対支文化事業の具体的内容は中国朝野の意見も取り入れながら策定された。

まず北京での図書館と人文科学研究所、そして上海での自然科学研究所の

設置である。そして余力ある場合は各地に博物館や医科大学、病院を建てるこ

とになった。これらの意義はきわめて大きい。なぜなら中国には依然として人文

科学、社会科学が発達しておらず、研究機関も不備のままだったからだ。これら

事業が中国で蒔いた種は大きい。北京の図書館及び人文科学研究所は

在の中国科学院
である。・・・上海自然科学研究所は1931年に開設され、医

学部(病理学科、最近学科、生薬学科)と理学部(物理学科、生物学科、化学

科、地質学科)の二部門がおかれた。・・・・・・・・・・・

また昭和五年(1930年)から両国の文化提携の人材を育成するため、在中国

の日本人留学生に対する補給制度を設け、後年学会でで活躍する学者を数多

く育成している。

  
更に引用を続けさせてもらう。清朝は朝野を挙げて日本視察を開始し、日本は

支那の覚醒カクセイ」を期待したと言う。

  
中国同様、西洋列強に迫られて開国を余儀なくされながら西洋の先進文明を摂

取して見事近代化を成し遂げ、わずか三、四十年で清国、ロシアを相次いで打

ち破った日本は、中国の官僚、知識人の目を見張らせた。それまで東海の一小

国として見下していた日本だったが、彼らの日本に対する思いは尊敬に変わ

り、日本を手本に近代化改革に乗り出した。それは正に、二千数百年来の中か

帝国君主体制の抜本的な大変革の動きと言ってよかった。


一般の史書にはなぜか余り触れられていないが、日清戦争の終結から清朝

壊まで、即ち1895年から1911年までのこの十数年は、当時世界からも「中国

の日本化
」と称せられる事、大だった。


これまで見てきた、またこれからも検証してゆく中国の近代化政策を「一つの温

和な革命と称される資格がある」と言ったのは米国学者ダグラス・レイノルズ

だ(「中国の新生革命と日本」)。彼は1898年から1907年までの十年間を、日

中関係が調和と提携に満ちた「黄金の十年」だと評価している。


このような見方に対し、中国ではお決まりの「日本陰謀史観」から、「友好」の仮

面をかぶり、留学生を招いて日本傀儡を作り、あるいは改革に協力することで中

国で指導的地位を確保しようとした、との見方がえられる。つまり、日本がやるこ

と為すこと全てが侵略のためだったと言うわけだ。

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「清国保全論」(「支那保全論」「東亜保全論」)とは当時の日本の政策であり、世

論だった。西洋列強の中国進出と領土分割は、隣国日本にとっても鼻はなして

脅威であり、日中は提携して西洋の東亜侵略勢力に対抗しなければならないと

言う考えである。そのためにはなんとしてでも中国を目覚めさせ、日本同様に近

代化を推し進めさせ、日中の強力な同盟関係を築きたったのである。「支那

覚醒
」とは当時人口に膾炙した、中国に対する期待をこめた言葉だ。

       
さて「北京議定書」に戻ろう。賠償金のほかには、各国公使館所在地区域は清

国人の居住を認めず、各国公使館の警察権下に属する。そして公使館を防御で

きるとした。


また、清国は、列国が海岸から北京まで自由に行き来できることとし、その間を

占領できることとした。


この議定書は、清朝の拒否は一切認められなかった。そして公使館周辺区域の

警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点列国の駐兵権

認めると言ったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地

域が生ずるものに他ならなかった。このような厳しい内容は、列強が義和団

乱の再発を恐れたためのものであった。丁度大東亜戦争に負けた日本が、憲法

9条のような悪法を押し付けられた状況に似ている。


(続く)