しかも、旅順大連租借条約(1898.3.27)でハルピンから大連・旅順への鉄道
敷設権を獲得し(東清鉄道支線)、1903年1月に完成させている。ロシア領の
チタから清国領の満州里、ハルビン、ウラジオストク(正しくは浦塩近くのウス
リー鉄道)への連結(東清鉄道)も1903年7月に完成している。そしてシベリア
鉄道全線の開通も間近に迫っていた。そうなるとヨーロッパから満州、朝鮮への
軍隊の派遣はすこぶる容易となる。そのためシベリア鉄道の全線開通前に、満
州のロシア軍を叩いておく必要があった。日本の国論も対露開戦を後押しした。
結局日本は、1904年2月6日、小村寿太郎が駐日ロシア公使ローゼン(ロマン
・ロマノヴィッチ・ローゼン)を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。シベリア
鉄道(バイカル湖畔シベリア鉄道←→東清鉄道)の全線開通は、日露戦争開
戦後の1904年9月であった。参考までに、ウスリー鉄道のハバロフスクからバ
イカル湖方面のロシア領内のシベリア鉄道の完成は、1916年となる。ロシア
は手っ取り早く満州を横切って満州里からハルピンを経由してウラジオストクへ
の本線とハルビンから奉天、遼陽を通り大連、旅順への支線の完成を急いだの
である。丁度丁の字の形で東清鉄道を完成させていたのであり、当初はこれを
シベリア鉄道と呼んでいたのである。丁の字左がチタ、満州里で右がウラジオス
トク(ウスリー鉄道)、真ん中にハルビン、下が大連、旅順と言った形だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B8%85%E9%89%84%E9%81%93
上記には「東清鉄道周辺の路線図」があるので参照されるとよい。即ち、
(シベリア鉄道,1916年開通)
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←ハバロフスク
↓ ↑
↓ (ウスリー鉄道 ↑ 1897年 )
↓ (東清鉄道,西側1901、全線1903/7) ↑
←←チタ→満州里→→→ハルビン→→→綏芬河(スイフンガ)→ウラジオストク
↓
長春
↓ (東清鉄道支線、南満州鉄道,1903/1)
奉天
↓
大連
旅順
・・・・・・と言ったところが満州をめぐる鉄道の状態であった。ちなみに東清鉄道
は露仏同盟のフランスの資本で主に造られたものである。
(続く)