日韓併合100年(54)

1904年1月12日御前会議では、最終的に、日本の要求が受け入れられな

ければ開戦することを確認する。そして必要な金を工面するために日本銀行

総裁の高橋是清を、イギリス・アメリカに派遣する。そしてアメリカを味方につけ

るために、金子堅太郎を派遣し世論に訴えさせた。


金子堅太郎
筑前の国、今の福岡県西部の生まれで、1871(M4)年11月

出発の岩倉具視欧米使節団に随行員として同行し、団琢磨とともにアメリカに

留学
している。始めにボストンの小学校に入学し、飛び級で卒業し中学校(ハイ

スクール)に入学、中途退学し1876年2月にハーバード大学法学部(ロースク

ール)に入学している。そして1878(M11)年6月ハーバード大学を卒業

する。


日露戦争当時のアメリカ大統領、セオドア・ルーズベルト1880年にハーバ

ードを卒業している。金子はセオドア・ルーズベルト大統領とも、日露戦争につ

いて話し合いを行っている。結局セオドア・ルーズベルトポーツマス講和会議

の音頭をとることになり、この和平交渉の斡旋によって1906年のノーベル平和

賞を受賞している。


セオドア・ルーズベルトは一見日本贔屓(びいき)のように思われるが、決してそ

うではない。彼の和平交渉の斡旋の結果、日本は一銭も賠償金は取れなかっ

たからである。それに1920年代から1930年代にかけて、『オレンジ計画、

WarPlanOrange
』なるカラーコード戦争計画を策定している。これは大日本

帝国海軍にアメリカ海軍が戦争をし如何に勝利するかの戦争計画であり、これ

にもとづいて原爆が開発されたと言われている。原爆開発の最終決定は、彼の

親戚でもあるF・D・ルーズベルト大統領が決めている。しかし1945年4月

12日
脳卒中で急死したため、後を継いだトルーマン大統領が原爆の日

投下
を実施したものである。セオドア・ルーズベルトも、冷徹なアメリカの政治家

なのであり、将来的にアメリカと日本の国益がぶつかるであろう事を予想してい

たのである。ちなみに、フランクリン・デラノ・ルーズベルトニューディール政策

は、結局は、日本に戦争を起こさせて戦争景気による不況脱出作戦だったので

ある。日本に戦争を吹っかけて、軍需産業を拡大させ雇用を起こし、景気回復

を図ったと言うのが本質ではないかと思っている。ニューディール政策はその隠

れ蓑であった。もちろん、コミンテルンの策略もあり、米国のケインズ経済による

公共投資拡大策でもあり、米国の対独戦参戦への原因作りでもあり、もろもろの

要因が複雑に絡み合った結果がアメリカの日本への開戦となったものであるが、

最大の理由は雇用の拡大のための戦争開始なのである。政治とはそんなもの

であり、国益とはこういうものであろう。相手国を陥れても自国の国益を守る、と

言うのが政治であり政治家なのである。管や仙石、ましてや鳩山、小沢などに

は、日本の政治は勤まらないであろう。民主党では日本は滅んでしまう。


ここら辺の事情は、小生ブログ

番外編・プリウス急加速問題」の2010/3/18(NO.3)、1010/8/29(NO.59)や

日本は侵略国家ではありません。」の2008/12/28(NO.8)

靖国神社に参拝しよう」の1\2008/9/12~13(NO.2,3)  なども参照願う。

(続く)