日韓併合100年(56)

話は少し逸れたが、日本にはイスラエルのある支族がやってきたと言うことは確

からしい。そして、昭和天皇のお言葉に、日本民族ユダヤ民族との親近感を

感ずるのである。何はともあれ、日本はヤコブ・シフ氏に救われたのである。


さて日本では新橋から神戸までの東海道線の全線開通は、1889(M22)年7

月1日
であり、日清戦争開始(1894年7月19日最後通牒、2010/11/11のブロ

グNO20参照のこと)の5年前のことであったが、山陽鉄道神戸→馬関

(下関、1902/6/1改称)
までの開通は1901年5月27日のことであった。山陽

鉄道は私鉄であったが、1906年に鉄道国有法によって官営鉄道山陽本線

なった。


山陽鉄道広島県三原(現・糸崎)駅から広島駅まで延伸されたのは1894年

6月10日
のことであった。そのため明治天皇は、1894年9月13日大本

(最高の統帥機関)を宮中から広島に移し、9月15日に天皇ご自身も広島の

大本営にお移りになり、日清戦争の指揮を執られた。明治天皇が広島に大本営

を移されたのは、山陽鉄道が広島まで延伸されていたからであろうか。そして

下関条約(日清講和条約、4/17調印、5/8批准)の後の1895年5月30日まで

227日間この地が、日本国の立法・行政・軍事の最高機関であり、行宮

(あんぐう、天子の巡幸中の仮の御所。行在アンザイに同じ。)が東京を離れた唯

一の事例と、Wikipediaに述べられている。


日本では、これで東京から下関まで鉄道がつながり兵員や物資輸送の便が向上

した。そして朝鮮においても平行して釜山から京城(ソウル)までの鉄道の建設

を急いだ。この京釜線日露戦争(1904年2月6日国交断絶)に遅れること9ヶ

月の1904年11月に全通したのである。


釜山から京城までの鉄道の敷設を急いだのは露国太平洋艦隊が仁川付近に

屯(たむろ)していたからであり、当時は海上輸送の自由が利かなかった。その

ため釜山から陸上輸送によって兵員や物資を円滑に輸送する手段が必要と考

えられていたため、京釜鉄道の建設を急いでいたのであった。しかし1904年2

月8日
、日本海軍第一艦隊第4戦隊は仁川港に停泊中のロシア軍艦のコレーツ

とワリヤーグの2隻に退去勧告を行い、湾外での決戦を挑んだ。その時知らず

に出てきたコレーツと小競り合いとなり、これが日露の最初の交戦となる。翌日

日本艦隊の攻撃を受け、仁川港に戻り乗組員を上陸させた後自沈した(仁川

沖海戦
)。その結果、海上輸送が可能となり、京釜鉄道の緊急性は消滅した

が、すでに突貫工事(1901年9月に最初の区間の起工開始)にかかっており、

そのまま工事を続けて1904年11月に永同にて上下線が繋がったのである。

1905年1月1日より、釜山(草梁)-京城間の営業運行が始まった。


以上は、「京釜鉄道と日露戦争
http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/denki/coria.htm)を参照している。

釜山の一地区の草梁には、江戸時代に日本唯一の在外公館が存在していた。

そして草梁倭館(10万坪)には常時400~500人の対馬藩の役人が居留して

外交・貿易の仕事に従事していた
http://www.e-trip.info/korea/busan-wakan.html)。
(続く)