さて近代におけるロシアの満州への侵略は、
1895年4月23日の三国干渉により、明白となる。そして、
1896年2月11日には、朝鮮高宗がロシア公使館に拉致される(露館播遷)。
1896年6月3日の第1次露清密約(カッシーニ密約とも呼ぶ)の軍事同盟に
より、東清鉄道の敷(ふ)設権を獲得している(12/29,NO.50参照)。
1897年11月1日には山東省でドイツ人宣教師が殺され義和団事件の萌芽
が始まり、
1897年10月12日、高宗が戻り皇帝に即位、大韓帝国成立。この年ウスリ
ー鉄道完成。
1898年3月27日にはロシアは「旅順大連租借条約」を締結し、東清鉄道
支線(ハルビン・旅順間)の施設権を獲得する。
1900年6月20日には義和団に北京が占領され「北京の55日」が始まる(12/22,NO.45)。
そして義和団事件がロシアに波及して
1900年7月にはロシア軍が満州に軍隊を派遣して満州駐留することになる。
1901年には東清鉄道の一部(チタからハルビンまで)開通し
1901年5月27日には山陽鉄道の神戸→馬関(下関、1902/6/1改称)まで
が開通する。
1901年9月7日には北京議定書(辛紐条約)調印、義和団事件(北清事変)
終結。
1902年2月30日、日英同盟調印、発効。
1902年4月の「満州還付に関する露清条約」を守らずに、ロシアは1903/4
には兵を引かなかった。
1903年1月にはその支線が開通し、ハルビン・旅順間が鉄道で結ばれて
いる。
1903年7月には、東清鉄道がウスリー鉄道とつながり、シベリア鉄道(仮)全
線開通となる。
1904年2月6日、外相小村寿太郎、露国公使ローゼンに国交断絶を伝える。
1904年2月8日、仁川沖海戦で、ロシア軍艦のコレーツとワリヤーグの2隻と
交戦(日露開戦)。
1905年1月には、朝鮮の釜山・京城間に京釜鉄道が営業運転を開始している。
そしてロシア軍は東清鉄道の保護と言う名目で、満州駐留を継続させている。
そして日本を朝鮮から追い出しに掛かってきた。これは日本としても許しがたい
ことであった。朝鮮(大韓民国)がロシアや他の列強の手に落ちると、日本は直
接列強の侵略の対象となりかねないからだ。ロシアは大軍を満州に駐留させ
て、朝鮮における利権の拡大など大韓民国へ介入しだした。日本は英国と同盟
を結び、ロシアと国交を断絶、日露戦争に突入する。日本は日露戦争に辛うじ
て勝利した。そして東清鉄道支線(新京・現長春-旅順)の譲渡を受け、南満州
鉄道(満鉄)として経営することになるのである。更に取り決めに反して、中華
民国(張作霖)が満鉄に沿って鉄道の敷設を計画したため、それを阻止するた
めにも排除される運命にあった。
さて当事国の朝鮮との関係はどうなっていたのであろうか。
その前に京釜鉄道がどのような経過で日本が造り上げていったかを、
Wikipediaで調べてみる。
(続く)