ハバロフスクの西北西の直線距離で600kmほどの所にブラゴヴェシチェンス
クがある。中国名で海蘭泡と呼ばれていたそうだが、1900/7に義和団の一部
が占拠したところだ。ブラゴヴェシチェンスクはアムール川(黒竜江)沿いのロシ
アの州都である。対岸は中国黒龍江省の黒河(大清帝国時代のアイグン)であ
るが、この黒河の対岸でブラゴヴェシチェンスクの南側一帯に64箇所の村落
があり、中国人が住んでいた。これを江東六十四屯と呼び、1858年にアイグ
ン条約で清国領だった黒竜江左岸(ロシア側)は、ロシアに割譲されていたが、
この地域には沢山の中国人がいたために、清国が管理していたと言う。ロシア
は、この村落の住民3,000名全員虐殺し、さらには対岸の黒河鎮に2,000
名の兵士を渡河上陸させ、25,000名を虐殺している。そのため北京政府も台
湾政府もこの江東六十四屯のロシアの占領は承認していなかったが、江沢民は
エリツィンとの領土交渉でこの地の主権を放棄している。しかし台湾政府はこの
地の主権を放棄していない、とWikipediaには書かれている。このWikipediaに
掲載されている台湾で発行されている地図での江東六十四屯は、小さくてまこと
に見にくい。位置関係を把握していないと、一寸見では見間違えてしまいそうで
ある。この虐殺事件は、2010/12/23のNO.46の当ブログでも言及している。
ちなみに1689年のネルチンスク条約では満州での国境は黒竜江と外興安嶺
の線に定め、アムール川左岸(ロシア側)は清国領であったが、1858年5月
28日のアイグン条約ではロシアに割譲され、ウスリー川以東の外満州(現在
の沿海州)も両国の共同管理とされてしまった。19世紀から20世紀始めに亘
(わた)って結ばれた不平等条約のひとつとWikipediaには記載されている。
アロー号事件での混乱に乗じたロシアの強引な清国への侵略に等しい攻略で、
南下政策の一種なのである。
そして更にアロー号事件での英仏と清国との争いの仲裁に入ったロシアは、そ
れを理由に強引に沿海州を割譲させてしまった。1860年の北京条約であ
る。2010/12/17のNO.43を参照のこと。
もうひとつ付け加えると、ロシアは、1885年と1886年に朝鮮へ内密に働きか
けて、朝鮮を保護しようとしたこともある。これを第1次、第2次露朝密約事件
と言う。2010/11/8のNO.17で紹介しているので参照願う。
このようなロシアの行動をよく読めば、如何にロシアの満州占領
(2010/12/23,NO.46)が朝鮮にとって危険であったを思い知るのであるが、この
時の李朝朝鮮にはそんな危機感は一切ない、と言ったら嘘となるかも知れな
いが、ある意味他人事(ひとごと)のように感じていたことであろう。もしそうでな
かったら、「戦時局外中立」何ぞを宣言するはずがない。仮に宣言したとして
も、内々に日本に協力するなどと通じるべきである。否、普通は通ずる筈であ
る。しかし朝鮮は千年属国である。そんな主体的な行動を執る勇気はなかった
ことであろう。しかしロシアの属国になったら最後大韓帝国なんぞの国名はなく
なっていたことであろう。何しろ外満州(沿海州)までもぎ取った国である。日本も
危なくなる。だから日本は韓国の戦時局外中立宣言なんぞは無視したのであ
る。それが正解である。
さてかなり講釈が長くなってしまったが、その「日韓議定書」の全6条を次に示
そう。
(続く)