さて昨年末に放映されたNHKの「坂の上の雲」では旅順口を奇襲して日露戦
争の戦端の緒が切られた、と放映されている。当ブログでは、1904年2月8日
に仁川港外でのロシア軍艦コレーツとの小競り合いを、日露の最初の交戦で
あったと述べている。これは1904年2月8日の日中(昼間)の出来事である。
仁川沖海戦はその翌日(2月9日)であるので、一般的にこの交戦は2月9日と
して取り扱われている。
そういう意味で言えば、旅順口奇襲作戦は、1904年2月8日の18時に日本
海軍の魚雷艇が旅順口に向けて進路を変え、2月8日から2月9日に変わる
時点で停泊していたロシア艦隊に魚雷を放っているのである。だから日露戦争
の交戦の開始は、仁川沖での小競り合いが最初の交戦であると当ブログでは
述べたのである。
さて旅順口とは、旅順港の入り口である。旅順湾は浅く又その入り口(旅順口)
は狭く、旅順艦隊は入り口の外に停泊していた。この時の旅順艦隊は戦艦、巡
洋艦は合わせて12隻程度と思われる。
これは「第1次世界大戦」(http://ww1.m78.com/index.html)の「日露戦争」の
「旅順口奇襲」(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/storm%20over
%20port%20arthur.html)を参照してまとめている。
ロシア艦隊の軍艦の概略を次に列挙する。
戦艦
レトウィザン、ツザレウィッチ、ボルタワ、ベレスウェート、ポペータ、
ペレスパブロフスク、セバストポリ、以上7隻。
バルラーダ、アスコリッド、バヤーン、ノーウィック、ディアナ、以上5隻。
以上軍艦が旅順口に三々五々、停泊していた。
これを日本海軍の第1、第2、第3駆逐隊の11隻の駆逐艦(艇)が急襲したの
である。
「旅順口奇襲」によれば
第1駆逐隊 白雲シラクモ、朝潮アサシオ、霞カスミ、暁アカツキ の4隻
第2駆逐隊 雷イカズチ、朧オボロ、電イナズマ 曙アケボノ の 4隻
第3駆逐隊 薄雲ウスクモ、東雲シノノメ、漣サザナミ の3隻
ちなみに性能としては、
「明治期の駆逐艦」
http://www.justmystage.com/home/narutyan/fire/des/des_m.htmによれば
例えば白雲は、基準排水量(322トン)、喫水線の長さ(65.9m)、
艦幅(6.3m)機関出力(7,000馬力)、最大速力(31ノット)と極めて小型の
艦艇だ。清国の北洋艦隊の小型の広丙(防護巡洋艦)でも、1000tで、
全長(80.47m)、全幅(8.0m)、速力(17ノット)の軍艦である。駆逐艇はそ
の速力に物を言わせて、高速で敵艦に近づき魚雷をぶっ放して即離脱すると言
う戦い方をする船である。
であったが、全11隻の駆逐艦で12発の魚雷を発射したが、3発しか命中しな
かった。まことにもって不甲斐ない結果であった。それにはふたつの原因が
あった。
(続く)