日韓併合100年(63)

ひとつは、魚雷の性能が実践的ではなかった。当時の日本の魚雷は「冷走魚

」と言われるもので、全く以って比ぶべくもない代物であった。冷走魚雷は、圧

縮空気をピストンエンジンに送って1機のスクリューを毎分100回転まわして、

低速(12km/h程度)で推進するものである。高圧の空気を送り込むのでその

時の膨張で周りの熱を奪い機関が凍結する問題があり、海水で暖める必要が

あった。その上、先の「
旅順口急襲」によれば軍令部の外波内蔵吉大佐と言う

人物が、速度を落として航走距離を伸ばすと言う改悪を加えてしまったと言うこ

とだ。そのため日露戦争には第4駆逐隊司令として駆逐艦にのり、日本海海戦

では戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈するなどの戦果を上げ勝利に多大な貢献をし

鈴木貫太郎海軍中佐日露戦争当時。大将、昭和20年に内閣総理大臣

は、この魚雷を「ヒョロヒョロ魚雷」と名付け徹底的に反対したものであった。

 
命中した魚雷はその何れもが第1駆逐隊が発射したものであった。白雲は「

ザレウィッチ
」に、朝潮が「レトウィザン」に、そしてが「バラーダ」に放った魚

雷が命中している。当時の魚雷は速度が遅く、進行方向に加速して発射しなけ

ればならず、正確な操艦技術を必要とした。だからこの3発は、第1駆逐隊司令

浅井正次郎大佐の果敢なる肉薄と指揮によるものと、「
旅順口急襲」に述べ

られている。

 
ふたつ目
の原因は、第2、第3駆逐隊はいずれも1000m以上の遠距離から

魚雷を発射
していることである。この遠距離発射も、軍令部の外波内蔵吉大佐

の発案した甲種水雷攻撃法に従ったものと、述べられている。そして直進して

発射しなければならなかったことから、単縦陣での突入は魚雷発射にはまことに

不都合な陣形なのである。集団による水雷攻撃は横陣または雁行陣でなけれ

ばならない、とここでは述べている。だから的確な操艦技術が必要となるので

ある。どうもまともに攻撃できたのは、第1駆逐隊だけで、第2、第3駆逐隊の攻

撃は敵の砲撃もあり各艦がばらばらとなり、目くら発射の状態ではなかったかと

推測されるのである。

 
旅順湾は浅く、満潮時にしか口外に出られなかったため、ロシア戦艦と巡洋艦

は口外に停泊していた。口外停泊のため、露艦は常時蒸気を上げており、実弾

も装填されていたと言う。

 
奇襲攻撃は2月9日未明に終了したが、泊地で停泊している艦に対して11隻の

駆逐艦で攻撃し、3発しか命中しないと言うことははなはだ不満の残るもの

あった。しかも一ヵ月半の修理で被弾した艦船は戦列に復帰している。

 
翌2月9日昼には日本艦隊の本隊も到着し、砲撃を開始する。ロシア艦隊も、そ

して旅順要塞の砲台からも砲撃を開始する。この砲撃戦は双方にそれなりの被

害をもたらし、一時間程度で終了する。この砲撃戦では、日本海軍はロシア艦隊

に対して、決定的な打撃を与えることは出来なかった。日本艦隊の射撃の精度

も余りよくなかったようだ。そして旅順艦隊は旅順港内へと撤退し引きこもって

しまった。奇襲により決定的な打撃を与えると言う作戦が崩れ、日本軍にとって

も予想外の戦果となった。ロシアはバルト海に大規模な艦隊を持っている。その

バルチック艦隊と合同されたら、日本に勝ち目はない。しからば日本のシー

レーン
を如何に守るのか。


(続く)