日韓併合100年(64)

しかもロシアはウラジオストクに4隻の巡洋艦を持っていた。旅順に目が行って

いたため、ウラジオ艦隊は日本近海に出没しては、日本商戦や輸送船を攻撃

していた。そのため上村彦之丞司令長官(中将)の第2艦隊を派遣しウラジオ艦

隊捜索するも、なかなか発見できずに、1904年6月15日には常陸が沈め

られ陸軍兵士1,000名余りが戦死している。この件もおいおい述べる。

 
なお上村彦之丞中将については、2010/12/3のNO.33のブログでも言及してい

るので、参照願いたい。「ブラボー!アドミラル上村」と賞賛された上村である。

 
さて特に単縦陣での水雷攻撃については、改革すべき点が多々あったものの、

大東亜戦争でも改善されていなかったと言う。事実に即した分析と改善が等閑

にされた結果であり、日本軍の、否日本人の悪さがこの時から現れていたよう

に、小生には感ぜられる。

 
しかもロシア側では、2月8日の夜は太平洋艦隊司令長官スタルクの自宅で

は、マリア命名祭でパーティーが開かれていたと言う。これは、NHKの「坂の上

の雲」で放映された通りの様であった。

  

話は変わるが、日本政府はロシアに国交断絶を伝えると同時に、1904年2月

6日
にロシアと満州在留の日本人に帰国命令を出した。このように外交関係が

緊迫の度を増すと、如何に在留邦人を救出するか、が問題となる。先の「旅順

口急襲
」によれば(奇襲でなく急襲が正しい)、シベリア在留の日本人はウラジ

オストクから大多数が避難出来たが、満州在住者はハルビンまで来て、そこか

ら多分東清鉄道支線で旅順または大連に行き、そこから船で脱出する手筈と

なっていた。旅順口急襲は、 2月8日夜から2月9日にかけて、行われてい

る。旅順では、2月8日昼までに英国船により多数が帰国していたが、まだ多

数の在留邦人が旅順に取り残されていた。しかも2月9日の昼には、日本艦隊

の攻撃があった。旅順の日本人はチーフー行きの温州号に乗り込むことが指定

されていたと言う。結局2月13日にハルビンから最終の日本人103名が到着

し、総数304名は、2月14日午後4時出港許可がおり、ようやく脱出すること

が出来る。ハルビンからの日本人は途中、ロシア兵による略奪を受け着用衣

類以外は何も持たない状態だったと言う。それでも、出港までの間にロシア側か

らは、食料の差し入れなどがなされている。もちろん日本に居たロシア人は自由

な帰国が許可されており、略奪などは一切なかった。大東亜戦争時の満州

の日本居留民へのロシア軍や中国軍の残虐な仕打ちに比べれば、かなり穏

当な扱いであったようだ。しかし旅順市内では、すでにロシア兵による略奪など

により、治安はかなり悪化していた。

 
近い将来、朝鮮半島で戦乱が起こるかも知れないと言われているが、その時韓

国在留の日本人をどのように保護し、無事帰国させるのか。果たして韓国兵は

日本人を保護してくれるのか、それとも壬午軍乱甲申事変の時のように、略

奪や虐殺をしてくるのか。多分に後者の状況となろう。その時日本政府はどうす

るつもりなのか。その時は即座に自衛隊を出動させて邦人保護に当たらなけ

ればならないし、それが出来るように国内法の改正や韓国政府と詰めておかな

ければならないだろう。第2次朝鮮戦争が起こる可能性がある、などとまことし

やかに論じられている現状を鑑み、日本政府や自衛隊は物心両面での準備は

必須である。おさおさ怠りのないように願いたい。


(続く)