ちなみに、アメリカはラフ・ライダーズ(荒馬乗り)連隊など17,000人を派遣
した。この連隊の中佐として戦いを指揮したのが、後に大統領となったセオドア・
ルーズベルトである。地上戦は要所のサン・ホアン高地が1898年7月1日
の1日で陥落し、大勢は決していた。そして7月3日に、スペイン艦隊が湾外に
脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉、攻撃され、スペイン艦隊は全滅している。
なお地上戦では、スペイン軍に対するよりも熱や疾病に対処するほうが問題で
あったと言う。
これは日清戦争で日本が澎湖列島に上陸した時(1895/3/23)に、コレラな
ど現地病に悩まされたことと同じである。知らないところに出る時は、疾病対策
などにも十二分な対処が必要だと言うことである。(2010/12/4,NO.34参照の
こと。)
そして7月中にはキューバ島を占領してしまう。そして7月25日には米軍は、
プエルトリコにも上陸し、8月にはプエルトリコも占領してしまう。プエルト・リコ
とは、スペイン語で「美しい港」と言う意味だそうだ。コロンブスが最初に見つけ
て、サン・ファンに入港した時に「なんと美しい港なんだ」と叫んだと言うことに由
来する、とWikipediaに書かれている。プエルトリコは、現在米国の自治領であ
る。
旅順港閉塞作戦から話は「米西戦争」へと移ってしまったが、移ったついでに
フィリピン、グアムの話をしておこう。
フィリピンもスペインの植民地であったが、ここでも御多分にもれず独立戦争が
起きていた。そのため独立戦争を支援すると言う名目で、1898年5月1日、ア
メリカ太平洋艦隊はマニラ湾で7隻のスペイン艦隊を攻撃した。この戦いでスペ
イン艦隊はほぼ全滅している。この戦いにはフィリピン革命軍の働き(ずっと共
闘していた)が大きかったものと考えられるが、マニラに入城する際にはアメリカ
軍はフィリピン兵の入城を許さなかった。もともとアメリカのフィリピンの独立を助
けると言うのは口実で、スペインからフィリピンを分捕りたかっただけであった。
そのためスペインが去った後、フィリッピン人は独立のためにアメリカと独立戦
争を戦うこととなる。アメリカではこの戦争をフィリッピンの独立戦争とは絶対に
呼ばない。米比戦争と読んでいる。アメリカではイギリスとの戦争を独立戦争と
呼んでいるが。米比戦争については、当ブログ2007/8/2の「慰安婦問題の誤
報4/4-捕捉」を参照願う。
グアムも同様で、1898年6月20日、ドサクサに紛れてアメリカ海軍が攻撃し
て占領してしまった。ここにはわずか54名のスペイン兵がいただけであった。
このようにスペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を共に失い、戦争を継続する物
理的な能力も精神的な気持ちも失せていた。交戦状態は、1898年8月12日に
終了している。そして1898年12月10日にパリ条約を調印している。
パリ条約で、米国はフィリピン群島、グアム島、プエルトリコを領有し、キュー
バを名目上独立させたが、キューバはプラット条項により米国は事実上保護国
化した。
プラット条項とは、三省堂大辞林(http://www.weblio.jp/content/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E9%A0%85)
によれば、プラットO.H.Platt連邦上院議員の提案した条項で、「キューバは
米国に対して海軍基地の供与と内政混乱の際の干渉権を認める」もので、保護
国化したものである。1902年から実施され1934年に海軍基地の規定を除き
廃棄された。だからグアンタナモ海軍基地がキューバにあるんですね。
(続く)