日韓併合100年(66)

ちなみに、アメリカはラフ・ライダーズ(荒馬乗り)連隊など17,000人を派遣

した。この連隊の中佐として戦いを指揮したのが、後に大統領となったセオドア

ルーズベルト
である。地上戦は要所のサン・ホアン高地が1898年7月1日

の1日で陥落し、大勢は決していた。そして7月3日に、スペイン艦隊が湾外に

脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉、攻撃され、スペイン艦隊は全滅している。

なお地上戦では、スペイン軍に対するよりも熱や疾病に対処するほうが問題で

あったと言う。

 

これは日清戦争で日本が澎湖列島に上陸した時(1895/3/23)に、コレラ

ど現地病に悩まされたことと同じである。知らないところに出る時は、疾病対策

などにも十二分な対処が必要だと言うことである。(2010/12/4,NO.34参照の

こと。)

 
そして7月中にはキューバ島を占領してしまう。そして7月25日には米軍は、

プエルトリコにも上陸し、8月にはプエルトリコも占領してしまう。プエルト・リコ

とは、スペイン語で「美しい港」と言う意味だそうだ。コロンブスが最初に見つけ

て、サン・ファンに入港した時に「なんと美しい港なんだ」と叫んだと言うことに由

来する、とWikipediaに書かれている。プエルトリコは、現在米国の自治領であ

る。

 
旅順港閉塞作戦
から話は「米西戦争」へと移ってしまったが、移ったついでに

フィリピン、グアムの話をしておこう。

 
フィリピン
もスペインの植民地であったが、ここでも御多分にもれず独立戦争

起きていた。そのため独立戦争を支援すると言う名目で、1898年5月1日、ア

メリカ太平洋艦隊はマニラ湾で7隻のスペイン艦隊を攻撃した。この戦いでスペ

イン艦隊はほぼ全滅している。この戦いにはフィリピン革命軍の働き(ずっと共

闘していた)が大きかったものと考えられるが、マニラに入城する際にはアメリカ

軍はフィリピン兵の入城を許さなかった。もともとアメリカのフィリピンの独立を助

けると言うのは口実で、スペインからフィリピンを分捕りたかっただけであった。
 

そのためスペインが去った後、フィリッピン人は独立のためにアメリカと独立戦

争を戦うこととなる。アメリカではこの戦争をフィリッピン独立戦争とは絶対に

呼ばない。米比戦争と読んでいる。アメリカではイギリスとの戦争を独立戦争

呼んでいるが。米比戦争については、当ブログ2007/8/2の「慰安婦問題の誤

報4/4-捕捉」を参照願う。

 
グアム
も同様で、1898年6月20日、ドサクサに紛れてアメリカ海軍が攻撃し

て占領してしまった。ここにはわずか54名のスペイン兵がいただけであった。

 
このようにスペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を共に失い、戦争を継続する物

理的な能力も精神的な気持ちも失せていた。交戦状態は、1898年8月12日に

終了している。そして1898年12月10日パリ条約を調印している。

 
パリ条約で、米国はフィリピン群島グアム島プエルトリコを領有し、キュー

を名目上独立させたが、キューバプラット条項により米国は事実上保護国

化した。

 
プラット条項
とは、
三省堂大辞林http://www.weblio.jp/content/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E9%A0%85

によれば、プラットO.H.Platt連邦上院議員の提案した条項で、「キューバ

米国に対して海軍基地の供与と内政混乱の際の干渉権を認める
」もので、保護

国化したものである。1902年から実施され1934年に海軍基地の規定を除き

廃棄された。だからグアンタナモ海軍基地キューバにあるんですね。


(続く)