日韓併合100年(67)

このようにして新興国アメリカ老舗スペインの太平洋、大西洋の植民地の全

てを分捕ってしまった。このためスペインは凋落の一途を辿り、ポルトガル・スペ

インと言った一時を謳歌した帝国は、新興国家アメリカに覇権を奪われていき、

反対にアメリカの興隆が始まるのである。アメリカはキューバプエルト・リコ

手に入れ、そしてフィリピンなど太平洋上の島々を侵略して、アメリカの内海

してしまった。ハワイもそのひとつである。

 
ハワイ
カメハメハ大王を、ご承知の方も多いことと思う。1810年にハワイを

統一した大王である。

 
カメハメハ王朝
はれっきとした独立国であった。1840年代には、ハワイで最初

憲法を発布し、内閣、議会、裁判所を持つ立憲君主制の国家であった。そし

て明治以来日本と友好関係を結んでいた。1881年には当時のカラカウア王

が世界一周旅行の途中日本に立ち寄り、日本としても始めての元首訪問であり

丁重にもてなした。たいそう感激されたことはもちろんのこと、もともと親日家で

あった王は、娘のカイウラニ王女のお婿さんに日本の皇族を迎えたいと言う婚

姻を申し込むほどであった。この世界旅行の目的には、アメリカの圧力を如何

にして逸らそうかと言う外交旅行でもあった。そしてハワイの伝統文化を残す活

動も起こしているし、これらの行動でハワイのナショナリズムは徐々に復興して

いった。しかしハワイはアメリカとの貿易が盛んであり、砂糖をアメリカに関税な

しで輸出しておりアメリカ資本のプランテーションが急成長をしていた。そのため

アメリカの商人たちが沢山ハワイに入り込んでいた。そのため日本に接近する

ハワイ王朝に対して、大いに危惧を抱くようになり、アメリカ商人たちは「ハワイ

連盟(ハワイアンリーグ)
」と言う秘密結社を作ることになる。彼らは、1887年

武力を背景に王党派の政府要人を無理やり辞任させ、カラカウア王を孤立さ

せ無理やり憲法を改正させてしまう。

 
この1887年に成立した憲法ベイオネット憲法と呼ばれている。ベイオネット

とは銃剣のことで銃剣で恫喝されて出来た憲法と呼ばれている。この憲法は閣

僚の任免は王の権限では出来ず、欧米生まれの在住外国人に限って選挙権を

認める、などという滅茶苦茶なものであったため、翌1890年の総選挙では王

党派が大勝する。しかしカラカウア王は病に倒れサンフランシスコで療養し結局

は帰らぬ人となってしまう。そのため、カラカウア王はアメリカに毒殺されたの

ではないかと、まことしやかに囁(ささや)かれている。まあそんなところであろ

う。

これは「カラカウア王」

http://www.legendaryhawaii.com/monarch/mon06.htmを参照している。

  
1891年
、カラカウア王の妹のリリウオカラニが王位を継ぎ、兄の遺志を継ぎ

王の権利を取り戻し「ハワイ人のためのハワイをつくる運動」を起こす。これに

対してアメリカは「ハワイ連盟」を「合併連盟」に格上げさせて対抗する。そして

1893年1月、合併連盟は米軍艦ボストンから武装兵を上陸させホノルルの町

や政府建物を占領する。そのためリリウオカラニ女王は明治天皇に救援を求

め、明治政府1893年2月23日と28日東郷平八郎艦長の巡洋艦

「浪速」と「金剛」
をホノルルに入港させる。当時、パールハーバーは「ベイオ

ネット憲法
」によりアメリカが専有使用権を獲得していたが、アメリカ側へは強い

圧力となり、混乱や白人の略奪を阻止することになった。この時ハワイには、

25,000人の日本人移民がおり、邦人移民の生命・財産を守るためでもあっ

た。しかし当時わが国はまだアメリカと戦火を交えるだけの力がなく、結局は何

も出来なかった。ハワイ議会も白人系が多数を占め女王は監禁され、止む無く

女王が退位しハワイは1894年には共和国となってしまう。そしてそれをいいこ

とにアメリカは1898年7月ハワイを侵略し主権をアメリカ合衆国に委譲さ

せ、1900年4月ハワイ領土併合法が公布されてしまう。そして1959年

(昭和34年)
50番目の州となってしまったのである。(これは先に紹介した

「アメリカの太平洋侵略」などを参照している。)


「ねずきちの ひとりごと(アロハ・オエ)」(
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-

entry-406.html
も、是非参照願いたい。ここら辺の事情に詳しい。
(続く)