日韓併合100年(73)

12月18日には東鶏冠山北堡塁が掘り進んだ坑道により爆破され、12月28

には二龍山 堡塁が、12月31日には 松樹山堡塁が爆破され、夫々陥落し

ている。そしてついに、1905年1月1日午後には旅順市街を望む中核陣地で

ある望台(185高地)を占領し、まさに市街に突入しようとした1月1日、15時

30分
ステッセルは軍使を派遣し降伏した。

  
「12月15日には作戦指導中のコンドラチェンコ少将が日本軍の28サンチ砲弾

で戦死したことも、ロシア軍将兵の士気の低下に繋がった。1月2日午後 
水師

にて開城規約調印明治38年1月5日正午には我が衛生隊本部に充て

られていた民家にて、両軍司令官の劇的な会見が行われた。その日は朝から

美しく晴れ渡り、数日前までの激戦が嘘のような穏かな日和であった。こうしてロ

シア軍の開城と武装解除により旅順攻略戦は終了した。」

  

とは先に挙げた日露戦争 概説4」http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.htmlに記されているもの

である。

また次のような話もある。

  

「 白襷隊による松樹山堡塁夜襲の際、指揮官や副官が次々と倒れていく中で

小出政吉少尉が先頭が立って突撃し、敵堡塁に飛び込んだ。小出少尉は大砲

を盾にして日本刀を揮い、縦横無尽に奮闘したが、敵の増援部隊の中で孤立し

て遂に戦死した。水師営会見の際にステッセルは小出の軍刀を乃木に渡し、

「あの将校は最先頭に立って勇敢な働きをし、我が軍も大きな損害を受けた。

その行動は誠に感慨の他ない。これはおそらく伝家の宝刀であろうから、ぜひご

遺族に渡して当時の壮烈な奮闘ぶりをお伝え願いたい」と語った。」


これも先に挙げた
「旅順要塞攻略戦③」
http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen1.htmに記載されているもの

である。

  
水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した。

次の写真は、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
より引用している。

220pxnogi_and_stessel
中列左から2人目が乃木将軍、その次がアレクセイ・ステッセル中将
  

この水師営の会見は、後に、文部省唱歌水師営の会見」として広く詠われた。

http://8.pro.tok2.com/~susa26/syoka/suisiei.html

よりその歌詞を引用する。歌もあるので是非耳を傾けるとよい。ついつい唱和し

てしまう。

  
水師営の会見

作詩 佐々木信綱  作曲 岡野貞一
尋常小学読本唱歌(十巻) 明治43年7月

 旅順開城 約成りて
 敵の将軍 ステッセル
 乃木大将と 会見に
 所はいずこ 水師営

 庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
 弾丸あとも いちじるく
 くずれ残れる 民家(みんおく)に
 今ぞ相見る 二将軍

間奏)

 乃木大将は おごそかに
 御めぐみ深き 大君の
 大みことのり 伝(つと)うれば
 彼かしこみて 謝しまつる

 昨日の敵は 今日の友
 語る言葉も うちとけて
 我はたたえつ かの防備
 かれは称(たた)えつ 我が武勇

(間奏)

 かたち正して 言いいでぬ
 「此の方面の 戦闘に
 二子を失い 給(たま)いつる
 閣下の心 如何にぞ」と

 「二人の我が子 それぞれに
 死所を得たるを 喜べり
 これぞ武門の面目」と
 大将答え 力あり

(間奏)

 両将昼食(ひるげ) 共にして
 なおも尽きせぬ 物語
 「我に愛する 良馬あり
 今日の記念に 献ずべし」

 「厚意謝するに 余りあり
 軍のおきてに したがいて
 他日我が手に 受領せば
 ながくいたわり 養わん」

(間奏)  

 「さらば」と握手 ねんごろに
 別れて行くや 右左
 砲音(つつおと)絶えし 砲台に
 ひらめき立てり 日の御旗

(続く)