第1軍主力は1904(M37)年3月11日に鎮南浦(平壌の玄関港)に上陸し
北上、そして鴨緑江渡河作戦(1904/5/1)に勝利し、5月11日には鳳凰城を
占領し、遼陽へ進むための補給を待つことになる。
第2軍は1904/5/5遼東半島に上陸し、1904/5/25~5/26に金州城、南山の戦い
に勝利し、大連を占領している。そして後ろから攻められることがなくなったの
で、1904/5/30、いよいよ満州平野へと進撃を開始する。1903/1に開通していた
東清鉄道支線に沿っての北上だが、列車は全て持ち去られており、しかも日本
の汽車は狭軌で使えない。
乃木率いる第3軍は1904/6/6塩大澳に上陸し、各ロシア陣地を攻略しながら
旅順要塞に迫ろうとしている。第3軍の旅順攻囲戦は、1904/8/19~1905/1/2
の(他の要塞戦と比較すると、わずか)4ヵ月半で勝利している。遼陽会戦
が、1904/8/24~9/4であったので同じ頃旅順でも激戦となっていたのである。
そして1904/6/24には、野津道貫(のずみちつら)を大将とする第4軍を編成し
ている。大本営首脳部では、第1軍の黒木為楨(くろきためもと)、第2軍の奥
保鞏(おくやすかた)、第3軍の乃木希典(のぎまれすけ)らの軍司令官の中で
は、野津道貫を筆頭格と見ていた、とはWikipediaに記載されている。そしてそ
の言葉通りに奉天会戦では主力となっている。
と言ったところが大まかな戦況であるが、第2軍の北上に伴い、ロシア軍は旅順
要塞を援護する目的で、シベリア第1軍団を南下させた。そのため第2軍とロシ
ア軍は、遼東半島の中央部の得利寺で激突する。
これが「得利寺の戦い」(1904/6/14~6/15)である。得利寺の戦いは、北進事変
で名を馳せた柴五郎大佐の陣地設営による火砲と敵右翼を突く日本軍の意表
をつく攻撃の結果、勝利に終わる。ロシアは極東総督アレクセーエフと陸軍司令
官クロパトキンとの意見の違いがあった。クロパトキンは兵力を遼陽に温存して
おきたかったが、アレクセーエフは宮廷を動かし、旅順救援に兵の1部投入を行
うことになった。これはロシア軍の戦略的な失敗であったと、「得利寺の戦い」
(http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou03_detail.html)には記載されてい
る。しかしながらこれ以降日本軍は連勝を続けることが出来たので、ある意味重
要な勝利であった。そして日本軍は三方から遼陽へと迫ることになる。
しかしながらこのとき(1904/6/15)、玄界灘を西に向かって航行していた常陸丸
が、ウラジオ艦隊に撃沈され千余名の陸軍兵士が戦死している。そのため得利
寺戦での勝利よりも、日本国中悲憤慷慨した。(2011/1/26,NO.64参照)
「得利寺附近の戦闘」(http://ww1.m78.com/sib/russojapanesewar.html)を参照され
るとよい。
第1軍は1904/5/1に鴨緑江を渡河し、九連城、安東を占領する。そして5/11に
は鳳凰城を占領している。これは先に述べたが、第1軍司令官の黒木為楨
(くろきためもと)大将は、遼陽へ進軍するには山間の要害「摩天嶺」を確保して
おく必要を察知し、6/24独断専行して摩天嶺を占領してしまう。
摩天嶺の重要性に気づいたロシア軍は、1904/7/17に2.5倍の兵力で砲撃を開
始した。しかし日本軍は既に陣地構築を完了しており、頑強に抵抗し更に側面
からも攻撃を仕掛けこれを撃退している。これを「摩天嶺の戦い」と言う。
そして第2軍は休むまもなく遼陽を目指して北上する。撤退したロシア軍を熊岳
城で撃ち、7/9には蓋平を占領する。そして1904/7/24~7/25に営口の東、東清
鉄道への橋、「大石橋の戦い(だいせっき・きょう)」で勝利し、海城へと進撃
し7/31~8/4に渡る戦闘で海城を占領する。
そして1904/5/19には第4軍編成の主力となる独立第10師団を、大孤山附近
に上陸させた。大孤山は鴨緑江河口より西、遼東半島の付け根部分に位置して
いる('10/12/3,NO.33に地図あり)。そして独立10師団に後備第10旅団と第2
軍の第5師団を加えて、6/24に第4軍に改編され、1904/7/31~8/1には「柝木
城の戦い(せっきじょう)」でロシアシベリア第2軍を破り、奥第2軍と共に8/4に
は海城を攻め落とす。
(続く)