そんな時この解雇問題が発生する。司祭ガボンはその労働者達の復職を、工
場側に請願するが工場側は頑として聞き入れなかった。そのためガボン組合側
は1/16にストライキを行い交渉を求めたが、これまた聞き入れられなかった。
そのためストライキは他の工場にも拡大し、要求事項も政治的色彩を帯びてき
て、1/20には十万人規模のゼネストへと拡大した。そして1905/1/22の日曜日
には、ニコライ2世の冬の宮殿への請願デモとなった。当日はよく晴れた日で一
面の白い雪に町はきらきら輝いていたと言う。集会には全労働者の約6割の11
万人以上が集まり、その半分が請願デモに加わった。冬の宮殿は、現在のエル
ミタージュ美術館である。当局は各所に軍隊を配置して冬宮へ向かうデモを阻止
した。そして銃を発砲した。それでも凍結したネヴァ川に逃げ、そこを渡り冬宮広
場に向かった。冬宮前の広場には、続々と群集が集まっていた。午後2時、約
束の請願書を皇帝に手渡す予定の時間となる。しかし現れたのは近衛中隊で、
群集に向かって発砲し始めた。冬宮前広場は見る見る鮮血に染まり、赤く彩(い
ろど)られた。そして町のあちこちで銃声が聞かれ、ガボン組合の労働者達の血
が雪を染めていった。死者の数は、千人とも四千人とも言われている。
と言ったところが「血の日曜日」の状況であった。このためそれまで民衆から信
頼されていたと思われていた皇帝への崇拝の気持ちは地に落ち、全国規模の
反政府運動となって1917年のロシア革命の原動力となった、とWikipediaには
記載されている。この暴動に対しては、明石元二郎大佐は何も関与していな
かったが、後に司祭ガボンとは会っている。この事件の後、ストライキの波は広
がり、ロシアの戦時生産と輸送は、重大な支障をきたすようになったと、「坂の
上の雲5」には記されている。
この「血の日曜日事件」は、その84年後に、1989年6月4日の中国、北京で
再現されている。しかし規模はずっと巨大になっていた。「天安門事件」だ。
天安門事件では、数千人から2万人の学生、民衆が、人民解放軍に殺された
と言われている。戦車のキャタピラーでひき殺されて、するめ状態の死体の映像
には驚愕したものだ。だから規模は明らかに、天安門事件の方がすごい。
さてそんなことに構っている暇は、今はない。黒溝台会戦は、日本にとっては、
負けたけど勝利した戦いであった。満州の雪原に戻ろう。日本軍は全ての軍隊
を満州に展開していた。予備軍まで投入した黒溝台会戦ではすっからかんの状
態で戦ったのであった。そんな戦力の中、遊軍的に使える軍隊を作るため1905/
1 に満州軍から兵を引き抜いて「鴨緑江軍」を創設している。乃木軍からも
第11師団が引き抜かれている。遊軍的に使えるようにとは、講和を睨みロシア
領を占領しておくためと言う意図を持っていた。ロシアとの戦争はロシア領では
なく満州の地とでロシア軍と戦われている。そして且つ朝鮮の国境を警備すると
言う名目の軍にするためであったが、当然これから戦われる奉天会戦にも投入
せざるを得なかった。日本には予備軍など一切無かったのである。それほどアッ
プアップの状態で戦争を遂行していた。
(続く)