日韓併合100年(84)

そんな時この解雇問題が発生する。司祭ガボンはその労働者達の復職を、工

場側に請願するが工場側は頑として聞き入れなかった。そのためガボン組合側

は1/16にストライキを行い交渉を求めたが、これまた聞き入れられなかった。

そのためストライキは他の工場にも拡大し、要求事項も政治的色彩を帯びてき

て、1/20には十万人規模のゼネストへと拡大した。そして1905/1/22日曜日

には、ニコライ2世の冬の宮殿への請願デモとなった。当日はよく晴れた日で一

面の白い雪に町はきらきら輝いていたと言う。集会には全労働者の約6割の11

万人以上が集まり、その半分が請願デモに加わった。冬の宮殿は、現在のエル

ミタージュ美術館である。当局は各所に軍隊を配置して冬宮へ向かうデモを阻止

した。そして銃を発砲した。それでも凍結したネヴァ川に逃げ、そこを渡り冬宮広

場に向かった。冬宮前の広場には、続々と群集が集まっていた。午後2時、約

束の請願書を皇帝に手渡す予定の時間となる。しかし現れたのは近衛中隊で、

群集に向かって発砲し始めた。冬宮前広場は見る見る鮮血に染まり、赤く彩(い

ろど)られた。そして町のあちこちで銃声が聞かれ、ガボン組合の労働者達の血

が雪を染めていった。死者の数は、千人とも四千人とも言われている。


と言ったところが「血の日曜日」の状況であった。このためそれまで民衆から信

頼されていたと思われていた皇帝への崇拝の気持ちは地に落ち、全国規模の

反政府運動となって1917年ロシア革命の原動力となった、とWikipediaには

記載されている。この暴動に対しては、明石元二郎大佐は何も関与していな

かったが、後に司祭ガボンとは会っている。この事件の後、
ストライキの波は広

がり、ロシアの戦時生産と輸送は、重大な支障をきたすようになった
と、「坂の

上の雲5
」には記されている。


この「血の日曜日事件」は、その84年後に、1989年6月4日の中国、北京で

再現されている。しかし規模はずっと巨大になっていた。「天安門事件」だ。

天安門事件では、数千人から2万人の学生、民衆が、人民解放軍に殺された

と言われている。戦車のキャタピラーでひき殺されて、するめ状態の死体の映像

には驚愕したものだ。だから規模は明らかに、天安門事件の方がすごい。


さてそんなことに構っている暇は、今はない。黒溝台会戦は、日本にとっては、

負けたけど勝利した戦いであった。満州の雪原に戻ろう。日本軍は全ての軍隊

満州に展開していた。予備軍まで投入した黒溝台会戦ではすっからかんの状

態で戦ったのであった。そんな戦力の中、遊軍的に使える軍隊を作るため1905/

1
満州軍から兵を引き抜いて「鴨緑江」を創設している。乃木軍からも

第11師団が引き抜かれている。遊軍的に使えるようにとは、講和を睨みロシア

領を占領しておくためと言う意図を持っていた。ロシアとの戦争はロシア領では

なく満州の地とでロシア軍と戦われている。そして且つ朝鮮の国境を警備すると

言う名目の軍にするためであったが、当然これから戦われる奉天会戦にも投入

せざるを得なかった。日本には予備軍など一切無かったのである。それほどアッ

プアップの状態で戦争を遂行していた。

(続く)