この奉天会戦には、それまでの会戦と異なり、重要な意味があった。日本は戦
力的に言っても、もちろん財政的にも破産寸前の状態であったため、奉天で勝っ
てロシアとの講和談判に望みたいと言う戦略的目標があった。そのためにもロ
シア軍の補充が行き届かないうちにこの戦いは決する必要があった。ただでさ
えロシア軍のほうが物量的にも優位であり、補充が進めば進むほど全く勝ち目
はなくなってしまうのである。更に冬季の方が川が結氷し、軍の行動にも都合が
良かった。
この黒溝台会戦でのロシア軍の失敗は、ひとえにクロパトキンの過敏な神経が
異常反応した結果、もたらされたものであった。そのためクロパトキンは汚名挽
回策を計画していた。それは乃木の第3軍が北上する前に、日本軍を叩くと言う
ものであった。しかも黒溝台会戦で主戦場となった沈旦堡を再度攻撃すると言う
ものであった。そんな時1905/2/11、長春南方の新開河の鉄橋が爆破された。し
かも乃木軍の第11師団が鴨緑江軍に配属されたと言う情報が、諜報活動でも
たらされた。このためクロパトキンは乃木軍が東部戦線の配属されたと思い、す
ぐさま新着の補充兵も含めて3万の軍を沿海州方面に派遣している。
しかし第11師団は乃木軍から引き抜かれて鴨緑江軍に配属されたもので、
乃木軍主力は西部戦線に配置されていたのである。
この奉天会戦での日本軍の意図は、ロシア軍の右翼(東部)を鴨緑江軍と
第1軍に衝かせ、ロシア兵を右翼に移動させ、且つ、乃木第3軍をしてロシア軍
の左翼(西部)を迂回させ、奉天を西から攻め、そして正面を第2軍と第4軍が衝
くと言うものであった。乃木軍の先陣は1905/1/27には遼陽へ到着している。
しかも2月中旬までには遼陽に全軍が揃う筈であった。しかも、当時としては
日本軍としては珍しく大量の機関銃が手だてされていた、総数254丁という。
露軍56丁。秋山好古が黒溝台戦で、ロシア軍の進撃を辛うじて押し留めたの
も、好古の提案で配備されていた機関銃であった。この機関銃により、各所で、
寡良く衆を押し留めたのであった。
1905/2/20、全司令官を集めて作戦計画を下達している。ここでの作戦計画の
徹底が後の混戦時の各司令官たちの作戦計画の正しい独断専行判断となって
いる。激戦時は通信はまともに機能しなかったのである。
ロシア軍の配置は、西部戦線から、
第2軍(カウリバルス大将)、第3軍(ビルデルリング大将)、第1軍(リネウィッチ
対象)、そしてレネンカンプ支隊という布陣である。
これに対して、わが日本軍は、西から
第3軍(乃木大将)、秋山支隊と第2軍(奥大将)、第4軍(野津大将)、第1軍
(黒木対象)、そして鴨緑江軍(川村大将)と言う布陣であった。
奥第2軍に対しては露第2軍が、野津第4軍には露第3軍、黒木第1軍には露
第1軍、鴨緑江軍に対してはレネンカンプ支隊が対峙する形である。
日本軍24万人、対するロシア軍は40万人の兵力であった。しかも砲は、日本
軍990門に対してロシア軍は1,200門、いずれを見てもロシア軍の方が優勢
であった。
1905/2/22、最右翼の鴨緑江軍が前進を開始。2/25には黒木第1軍も前進を開
始する。山を行く鴨緑江軍は悪戦苦闘の連続であったが、全滅の危機に瀕しな
がらも2/24に目標の清河城(町のこと)を占領する。黒木軍も2/27大訂子山を
攻略する。
(続く)