そして同日1905/2/27には乃木第3軍が北上を開始する。それに伴い各軍が
支援砲撃を開始する。日本軍は、ここでも28cm榴弾砲を活用して敵に脅威を
与えている。しかし砲弾の飛ぶ音には驚くものの、その性格上不発弾が多くそ
れほどの効果は無かったと言う。軍艦を攻撃する海岸砲の性格上、固い装甲板
を貫いて爆発させるためかなりの衝撃を与えないと爆発しないような信管のた
め、氷を貫くだけだったと言う。それでも飛び込んでくる音がものすごく、大いに
怖がられたと言う。
当初ロシア軍は乃木軍の北上を小部隊と観測していたが、1905/3/1の正午に、
日本軍の一個軍が露軍右翼を北上中との方に接したクロパトキンは大慌てで、
露第2軍と第1軍に兵の派遣を命令する。しかしクロパトキンは乃木軍の所在と
意図が判明したことにより、その対処方法がわかり大いに安心したと言う。
即ち、東部は山で守り、南部は川と堡塁で守り、西部は兵で守る、(「日露戦争
5」児島襄) と言って、露第2軍に乃木第3軍への対処のために兵を割かせた。
しかしそのため薄くなったところを奥第2軍は衝くことが、辛うじて出来た。野津
第4軍も露第3軍と対峙し、クロパトキンの言う堡塁に悩まされた。しかし多大な
犠牲を払いながらも、万宝山、紗河堡などを攻略してゆく。そしてロシア軍はジ
リジリと押されだした。
乃木第3軍は奉天の真西に位置する紗嶺堡で、3/3にロシア軍と衝突する。そし
て乃木第3軍はそこから奉天を目指して東に進み出した。奥第2軍も前進して
いる。乃木軍の東行と奥軍との前進は、日本軍左翼に穴を開けないための理
にかなった運動であった。3/4奉天に近づくにつれて終日不定期遭遇戦があちこ
ちで行われた。そして乃木第3軍は奉天を包囲すべく更に北上し、奥第2軍も前
進する。
3/6には、乃木第3軍の最左翼は奉天を通り越して北西の大石橋付近に達して
いた。そして奉天を包むように東進する。そしてクロパトキンが派遣した乃木軍
の左翼を押さえるための軍と激突した。ロシア軍は乃木軍の4倍ほど兵力で
あったが、如何せん平地での戦いであった。ロシア兵を守る堡塁は無かった。
日本軍の30年式歩兵銃は当時としては最先端のボルトアクション式の連発銃
であった。機関銃と共に敵の攻撃を阻止し、そして撃滅させていった。そしてロ
シア軍は徐々に後退していった。この敗北を聞いてクロパトキンはがっかりし、も
ともと考え方が防衛戦であったために、3/7全軍撤退を決意する。
日本軍右翼も3/8前進を開始するが、すでに敵は後退した後であった。そして
乃木第3軍と奥第2軍は、敵のしんがりを守る軍に前進が阻まれていた。クロパ
トキンはその間しんがり軍を自ら指揮して、清々粛々と撤退させていったと言う。
3/10日本軍は奉天に突入するが、すでにロシア軍主力は鉄嶺に撤退を完了さ
せていた。奉天は、義和団の国境進入を口実にコサック軍を派遣して東三省
(満州)を占領するが、その時ロシア軍が進駐した中心地であった。そのため奉
天はロシア風に市街が発展していたと言う。
このロシア軍の取り逃がしは日本軍の参謀本部の大いなるミスであった、と言っ
ている評論もある。クロパトキンは最後には直接戦線に出て、殿(しんがり)軍を
指揮して見事に撤退させていたが、日本軍総司令部は遠く煙台(奉天と遼陽
の間、遼陽寄り)の総司令部にいる。作戦主任参謀松川敏胤(としたね)大佐の
現状認識不足の為せる業であったようである。日本軍はロシア軍にそれ相応の
損害を与えて(出来れば撃滅に近い)、講和に持ち込みたかったのであったが、
ある意味ではするりと北に逃してしまったことに近いのである。最も後悔すべ
きは、日本軍右翼の鴨緑江軍や黒木第1軍にも北上をさせるべきであった、と
思われる。ロシア軍をある程度引きつけておけばよい、位に考えであったため
に強烈な前進はさせなかった。これを乃木第3軍同様、早期に奉天を右翼から
包囲させるような運動をさせれば、また違った結果になっていたであろう。
奉天会戦の様子や地図などは下記URLを参照されるとよい。
http://ww1.m78.com/sib/mukden%20battle.html
(続く)