日韓併合100年(87)

クロパトキンのこの撤退は「戦略的撤退」と言っている。日本軍を遠く内陸へ

引っ張り込んで、補給線が延びきったところで、叩き潰すと言うものであったが、

この撤退でロシア軍の士気は落ちに落ちてしまった。そのため軍隊としての体

を為さずに、鉄嶺も捨てハルビンまで撤退せざるを得なかった。そのため日本

軍はすぐに鉄嶺も占領している。


先の述べたようにロシア国内は社会不安が増大し、決してこの戦争を肯定でき

るものではなかった。従ってクロパトキンも時間をかけて伝統的な戦略を展開で

きる状況ではなかったにもかかわらず、そのことを十分に理解できていかったと

ころに大いなる誤算があった。そしてそれにもまして日本軍が予想以上に頑強

だったことも、想定外のことであった。


日本軍の死傷者7万人、ロシア軍死傷者など9万人。同じように損耗を続けて行

けば、明らかに、日本軍が先に潰れる。事実日本陸軍は、これ以上満州で会戦

をする余力はなかった。

 
ロシア国内の社会不安は、結局のところ(話は飛ぶが) 1917/3/3にはニコライ2

世を退位させ、300年続いたロマノフ王朝は終わったのである。そして翌年

1918/7/17にはボルシェビキ(レーニン共産党)によりニコライ2世一家全員7人と

従者4人は、ウラルのエカテリンブルグの幽閉先の地下室で銃殺されたので

ある。死体は身元がわからないように薬品をかけられ焼却され池に捨てられた

と言う。しかし1989年に地元の考古学者の調査の結果遺骨が発見され、1992

年にロシア政府はアメリカにDNA鑑定を依頼し、米・英・露の科学者らの鑑定の

結果ニコライ2世一家の遺骨と断定され、1998/7/17にサンクトペテルブルグ

ペトロパブロフスク大聖堂で葬儀が行われたと伝えられている。この日は、丁度

80年目の命日に当る。詳しくは次のURLを参照されるとよい。
http://russiaeigasha.fc2web.com/sp/stpt/hist/04/10.htm

 

さて奉天会戦の結果、クロパトキンは罷免され第1軍司令官のリネウィッチが、

その後を継いだ。結果としてロシアは奉天会戦の負けを認めたことになったが、

ロシア陸軍は日本軍の10倍で 総数200万人、まだ半分しか動員していな

かった、とWikipediaには記されているように、まだまだ継戦能力に不足は無

かった。


そして奉天会戦の勝利を受けて、1905/3/22に更なる講和圧力のために日本軍

樺太上陸作戦が検討されている(このときは実施されなかったが、日本海会

戦のあと樺太作戦は実行された)。しかし、ロシアは、アメリカのセオドア・ルー

ズベルト大統領の講和促進の提案に対して、バルチック艦隊の遠征に期待し

講和交渉には乗ってこなかった。講和交渉が始まるのは、従って、2ヵ月後の

本海会戦
まで待たねばならなかった。ロシアは、バルチック艦隊によって日本海

制海権を奪えば、日本軍の補給路をたつことが出来るので容易に満州の日

本軍を日干しに出来ると考えていたのである。


その頃バルチック艦隊は、アフリカ東岸のフランス領マダガスカル島のノシベ港

にいた。1905/1/9に入港している。その頃ロシアはアルゼンチンから巡洋艦

購入しようとしていた。そのためそれが達成するまでノシベで待たされたので

ある。更にはロシア海軍省が「第3艦隊」を編成したので待て、と言う指令のた

めの待機でもあった。この間ロジェストヴェンスキー中将は旅順陥落の連絡を

受け、唖然、呆然としたのであった。しかも巡洋艦の購入はイギリスの介入で立

ち消えとなっている。そしてバルチック艦隊は、第3艦隊とはカムラン湾で落ち合

うことにして、1905/3/16, 14:30抜錨してノシベ港を出港した。

(続く)